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Laura –

2012.10.14 「非正規公務員」上林陽治著 衝撃的な就労実態

最近話題になっている「雇い止め」や「ワーキングプア」は、経営の悪化に直面した民間企業によるリストラの結果だと思われがちだ。ところが、その背後にある非正規雇用の問題は民間企業に限ったことではないと指摘するのが本書の趣旨である。業績改善とともに雇用も増える民間企業と異なり、売上や利益とは無縁な行政機関だけにこの問題はやっかいだ。

本書で紹介される非正規公務員の就労実態は衝撃的だ。現在、国家公務員の2割にあたる約7万人が非常勤である。そのなかにはハローワーク相談員も含まれ、「明日は我が身」の思いで窓口業務を行っているという。地方自治体の実態もすさまじい。公立図書館ではすでに6年前から非正規職員が専任を上回る状態が続いている。専任が2年ほどで職場を転々とするのに対し、非正規は契約更新で同じ職場に勤め続けるため、数年後には専任より現場の仕事内容に習熟するという。また、消費者安全法の施行により設置された消費生活センターの相談員は非正規だが、再任用を繰り返すうちに知識と経験を積み重ね、もはやこの相談員なしには業務が行えない状況になっているそうだ。

仕事の専門性は専任をはるかに上回っているにもかかわらず、非常勤の給与は専任の3分の1以下で、長年勤めても「雇い止め」のリスクに晒(さら)され続ける。著者は、こうした勤務形態が広がった背景として公務員定数削減と財政悪化に伴う歳出削減をあげる。さらに、非常勤労働が既婚女性の家計補助的パート労働の延長線上と解釈されたため、仕事内容に即した待遇という原則が捨て置かれたと指摘する。

本書が提示する改善策は、非正規の待遇格差を禁止するなど法規制の強化である。それも重要だが、終身雇用・年功賃金・定年制ゆえに生産性と処遇の関連性が明確ではない日本の正社員という雇用慣行を変えない限り、根本的な解決は難しいのかもしれない。(日本評論社 1900円)

◇かんばやし・ようじ=1960年、東京都生まれ。地方自治総合研究所研究員。編著に『虚構の政治力と民意』。

 

Dallin – 「労働組合運動とはなにか」熊沢誠著 自立を求める営み

私たち「おじさん」は、ウザイと煙たがられても、労働組合の必要性を説き続けなければなりません——。
そんな若者・女性への思いを「主題の前置き」としつつも最終章でアツく語る労働研究の大家。「労働組合運動の復権」と題された講義を基に作られた本書は労働組合運動の歴史と現在の全体図を与えてくれる。
地味な労役を担う大多数のノンエリート。彼ら/彼女らが労働における不当な支配や操作からの自立を求める営みが労働組合運動だという。
その初期に位置づけられるのは19世紀半ば英国で生まれた職種別組合。熟練工たちによる労組は、企業に呑(の)ませる「標準賃金」や失業・死亡保険制度を整えた。19世紀末には、特定の技能をもたない港湾労働者の間で「誰でも入れる」一般労組が広まり最低保証賃金や就労斡旋(あっせん)も制度化される。だが、労組の発展はそれへの弾圧も強化。労組専門の探偵や「警備」会社が社会主義の根と共に労組運動を潰していきもする。
日本における労組運動も明治30(1897)年代から始まるが、会社への団体交渉やストライキはおろか、組織化自体なかなか許されない。許されたのはその後も日本に根づくことになる「縦の組合」=企業内組合。各企業の労組運動に部外者が介入しないからだ。大正期や戦後初期には激しい争議も起こったが、企業内組合の中で年功制度や労使協調が生まれていく。そして「新自由主義的改革」の中、労組組織率は下がり、駆け込み寺としての期待も失われていく。
「ストなし万歳」の現代。格差社会の中で生まれた「しんどい思いを抱える人々」は労組運動より「(鉢巻に組合旗みたいな“いかにもな運動”には引いてしまう)普通の市民」による脱原発運動や「(とにかく左翼っぽいものを嫌う)愛国者」たちの排外主義運動に向かっているようにも見える。労組運動の再生に健全なセーフティーネットと中間団体の回復の可能性を見出(みいだ)す著者の主張を読み直す意義は小さくない。(岩波書店 2100円)

◇くまざわ・まこと=1938年生まれ。甲南大名誉教授。専門は労使関係論。著書に『働きすぎに斃れて』など。

 

Taylor – [はたらく]課題を聞く 山崎元氏 転職しやすい社会に

——雇用不安が深刻化している。
雇用不安の引き金になった世界的な金融危機は、個人のカネへの欲求が暴走して引き起こされた。
その結果、派遣切りや雇い止めなどの問題が起きて、中高年の正社員と、職に就きにくい若者という「世代間の対立」と、正社員と非正規社員という「労働者間の対立」を浮かび上がらせた。
ただ、労働者派遣をなくせば問題が解決するわけではない。例えば、製造業への労働者派遣を禁止しても、職を失った人が、再就職しづらくなる恐れがある。一方で、企業が派遣労働者全員を正社員として雇うことができるわけでもなく、規制の強化で全体の雇用は減る。
——就職活動中の学生に安定志向が広がっている。
僕は12回転職したが、学生の時の就職活動でも、その後の転職活動でも、同じように「一生働ける会社に入りたい」と思っていたから気持ちは分かる。しかし現実には、自分と会社がベストの関係になれない場合も多い。ベストの組み合わせを探すためにも転職をしやすい社会にすべきだ。
——そのためには何が必要か。
正社員の解雇の仕組みを整備すべきだ。
例えば、企業が、何か月分かの給料を先に支払えば解雇できるなどのルールをはっきり決めた方がいい。企業側は、解雇に必要なコストが予測できるし、企業は、能力の割にコストがかかりすぎる中高年社員の代わりに若い人を雇うといった選択もしやすくなる。社員にとっても、ルールが明確な方がフェアだ。転職で不利になることが多い年金、退職金制度も変えるべきだ。
——年功序列による昇給や出世が難しい昨今、働く喜びを何に見いだせば良いか。
12回の転職で、収入が増えることもあれば減ることもあった。収入よりも職場の人間関係や自由度を重視したからだ。働きがいとは、近くにいる人を喜ばせること。働いて給料を稼げば家族が喜ぶ。良い仕事をすれば同僚が喜ぶといったことで、特別なものではない。(聞き手・鎌田秀男)

 

 

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Dallin – フェイスブック 手取り足取り… ネット選挙 まず研修 各党大忙し

インターネットを使った選挙運動が夏の参院選から解禁される見通しとなり、与野党は支持拡大につなげようと対策に乗り出した。パソコンに不慣れな議員にとっては手探りのスタートだが、「ネット空間」での新たな戦いに向け、各党の準備は熱を帯びている。
■夏までに習熟
「(ネットの活用において)政治は遅れていたので追い付きたい」
自民党のインターネットメディア利活用推進議員連盟は19日、党本部で設立総会を開き、会長の平井卓也衆院議員はこう強調した。総会には簡易投稿サイト「ツイッター」を運営する会社の代表も招かれ、出席した国会議員約15人は早速、活用法の講義を受けた。
自民党は、改選を迎える議員や秘書を対象にネット選挙の研修会も始め、初回の17日には約130人が参加した。6月末まで計7回開催し、会員制交流サイト「フェイスブック」なども使えるよう、手取り足取り教える方針だ。都道府県連にもパソコンに詳しい担当者を配置する。
自民、公明、日本維新の会3党が衆院に提出した公職選挙法改正案は、選挙期間中、誰でもホームページなどのネットを使って特定候補への投票を呼びかけられるようにする内容だ。電子メールの送信は政党と候補者に限って認め、違反者には罰則を設ける。生活の党なども賛成する意向で、今国会での成立は確実だ。
ただ、「選挙といえば、まず組織固め」(党幹部)が常識の自民党内では、パソコンやスマートフォンを駆使する新手の選挙戦に抵抗感を持つ議員が少なくない。このため、同党は夏までに習熟を図ろうと躍起だ。
■政策の補足説明に
民主党は「衆院選の惨敗後、マスコミに取り上げられる機会がめっきり減った」(党幹部)として、ネット選挙の解禁後は、他党の批判に対する反論や政策の補足説明に活用したい考えだ。細野幹事長は2月に率先してフェイスブックを始めた。14日には党所属議員らを対象に研修会を開催し、海江田代表は「一人一人がインターネットの戦士になってほしい」と呼びかけた。
■ネットテレビ
日本維新の会は知名度の高い橋下、石原両共同代表を前面に押し出す。法改正後は、選挙期間中もネット動画で投票を呼びかけられるようになることから、21日に党独自のインターネットテレビを開設する。
みんなの党は、比例選の候補者1人をネット上で公募中だ。面接の様子なども公開し、選考過程の透明化を図るという。

 

Laura – 公明「国会議員3割減」 公約原案 福祉・景気・政治改革が柱

公明党の参院選公約原案が29日、明らかになった。国会議員定数の3割削減をはじめとする国会改革、就職活動支援のための「就活手当制度」の創設などが柱だ。5月中の公約策定を目指している。

原案では、主要テーマに「新しい福祉を提案」「景気対策・経済成長」「清潔政治の実現」の三つを掲げた。立党以来の福祉、平和などの基本政策により重点を置いており、「現実路線に寄りすぎた」という評がある約10年の自公連立政権を終え、「原点回帰」の姿勢を鮮明にする内容となっている。

「新しい福祉」では、就活手当創設のほか、〈1〉住宅確保が困難な非正規労働者や年金生活者らを対象に低家賃住宅100万戸を供給〈2〉低所得の年金受給者に金額を上乗せする「加算年金制度」を創設〈3〉年金受給資格期間を25年から10年に短縮——などを明記し、「生活弱者」の救済を重視した。

「清潔政治の実現」では、「政治とカネ」の問題を参院選の争点の一つと位置づけ、企業・団体献金の全面禁止、政治資金規正法の制裁強化を打ち出した。

さらに、天下り根絶のほか、行政コストの節減策として、国有地3兆円分と政府保有株式8兆円超分の売却、国会の委員長手当や官報・公報廃止による6億円の歳出削減などを列挙した。防衛関連経費を5年間で5000億円削減する方針も盛り込み、党の看板である「平和」を重視する姿勢を明確にした。税制改革については、消費税を含む抜本改革を行い、消費税の使途は社会保障などに限定するとした。一方、格差是正を図る観点から、所得税の最高税率引き上げも掲げた。

 

Taylor –    安倍総裁 日銀法改正を検討 物価目標 2%見送りなら 雇用安定にも責任     東京朝刊    一面      01頁

自民党の安倍総裁は23日、フジテレビの番組で、日本銀行が来年1月に消費者物価の前年比上昇率2%のインフレ目標を設定しなければ、物価に対する責任を日銀に負わせる日銀法改正に踏み切る考えを表明した。日銀に雇用確保の役割を担わせる意向も示した。26日に発足予定の安倍新政権として、政治主導で日銀との連携を強化し、デフレ脱却を図る決意を強調したものだ。〈解説・安倍総裁の発言要旨2面〉
安倍氏は同番組で「インフレターゲット(目標)をちゃんと設けてもらう。次の政策決定会合では、検討していただくことになると思う」と述べた。その上で、日銀が2%のインフレ目標設定に応じない場合、「日銀法を改正してアコード(政策協定)を結び、目標を設ける」と語った。「日銀に責任が発生する形にしたい」とも述べた。法改正により、政府の意向を日銀の金融政策に反映しやすくする狙いがあるとみられる。
日銀は来年1月の次回の金融政策決定会合で、2%のインフレ目標を設定する方向で議論を進める考えだ。
安倍氏は日銀に関し、「FRB(米連邦準備制度理事会)のように、雇用についても責任を持ってもらう」とも述べた。失業率に関する数値基準を新たに導入したFRBなども参考に、日銀の雇用確保に関する役割も明確にすべきだとの考えを示したものだ。
来年4月に任期満了を迎える白川方明(まさあき)日銀総裁の後任人事については、「我々の考えに賛成していただける方に(したい)」とし、大胆な金融緩和への賛同が条件になると指摘した。
安倍氏は、消費税率の引き上げについて、「デフレが続いたり、悪化していくことになれば、消費税を上げる環境ではない」と指摘し、景気回復が前提になるとした。「今まで税金を払っていなかった法人も、(1ドル=)85円を超えれば払ってもらえる」とも語り、目標とする為替相場を示唆した。

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Taylor – [社説]財政再建 借金大国からの脱却目指せ

先進国で最悪の財政をどう立て直すか。日本の将来を大きく左右する問題だ。しかし、衆院選では、議論が深まっていない。各党は、財政再建に向けた覚悟を示す必要がある。
日本の財政は危機的状況だ。1990年代以降、バブル崩壊後の不況で税収は減り続けている。一方、急速な高齢化によって社会保障費が増大し、度重なる景気対策で歳出が膨張した。
税収と歳出のギャップを埋めるため、政府はここ数年、年間50兆円規模の国債を発行している。2012年度も一般会計の総額90兆円のうち、半分を占めるという深刻な借金財政に陥った。
新たな借金が3年連続で税収を上回る現状は、尋常ではない。現在の超低金利が上昇に転じれば、国債の利払いが一気に増大し、財政再建は一段と困難になろう。
民主、自民両党は政権公約で、新規の借金をせずに政策的経費を税収などでまかなえるよう、基礎的な財政収支を20年度までに黒字化する目標を掲げている。だが、その道筋は示されていない。
財政健全化の第一歩は、14年4月と15年10月に予定される消費税率の2段階引き上げを確実に実施し、社会保障・税一体改革を進めることだ。ただし、消費税率が10%になっても、財政再建の道のりは依然として厳しい。
ところが、日本未来の党、共産党、みんなの党などは反増税を掲げ、「消費増税の前に予算のムダを減らすべきだ」と主張する。膨らむ社会保障費を増税なしで、どうカバーしようというのか。
国債に依存して借金を重ね、将来世代に負担をつけ回す余裕はない。根拠のない甘い見通しを掲げ、痛みから逃げるだけでは、責任政党とは言えない。
消費税率を11%に引き上げて地方税化するという日本維新の会の主張にも問題が多い。
国を介さず地方が独自に消費税を徴収して配分したり、社会保障は国が別財源で手当てしたりすることが可能だろうか。
歳出削減についても、各党の公約は踏み込み不足だ。ばらまき色の強い農業支援や公共事業などが並ぶ。自民党は公務員人件費削減や生活保護見直しを掲げているが、歳出削減の規模は小さい。
限られた予算を将来の税収増につながる成長分野に重点的に振り向けることが重要だ。各党は既得権に切り込む予算改革をもっと議論すべきである。

 

Laura – 消費者物価指数急の上昇に懸念 食品・原油高が響く 賃金伸び率は鈍いまま

◆消費者指数伸び、13年ぶり水準
総務省が25日に発表した2007年12月の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く)は約13年ぶりの高い伸びとなり、物価の上昇傾向を鮮明に示した。だが、物価の上昇ペースが加速する一方で、サラリーマンの給与の伸びは鈍い。賃金上昇を伴わない物価上昇が個人消費を落ち込ませ、景気の足を引っ張ることが懸念される。(五十棲忠史)

■1%台到達も
12月の消費者物価指数の上昇率は前年同月比0・8%で、事前の市場予想(0・6%上昇)を上回った。この上昇は、エネルギーと食料品の価格上昇で大半が説明できる。食料とエネルギーを除くと物価指数は同0・1%の下落で、依然としてマイナス圏内にある。モノやサービスを購入したい人が増えたときに起きる好況期の物価上昇とは一線を画している。
原油や穀物価格が反落すれば、消費者物価は再び下落に転じる可能性もある。大田経済財政相は25日の記者会見で「デフレ脱却に向けて大きく歩を進めたとは言えない」と説明した。
ただ、原油や穀物など原材料価格の値上がりは、時間をかけて最終消費財の価格に波及するため、消費者物価は今後も上昇幅を拡大する公算が大きい。市場では「1月の上昇率が1%台に達する可能性もある」(ニッセイ基礎研究所)との見方が広がっている。

 

Dallin – TPP交渉参加15日表明 首相、経済効果訴え

安倍首相は、環太平洋経済連携協定(TPP)交渉に参加する考えを15日に表明する方針を固めた。実際の交渉に参加するには、交渉を始めている米国などの承認が必要なため、早期に参加の意思を表明し、新しい貿易のルール作りに積極的に関わる必要があると判断した。交渉参加には国内の農業団体などが反発していることから、首相は記者会見して参加の意義を丁寧に説明する考えだ。〈JA全中が反対集会9面〉
首相は2月のオバマ米大統領との首脳会談で、TPPについて、「すべての品目の関税撤廃が前提ではないと確認した」と強調した。その後の日米両政府の事前協議では、焦点の自動車分野について、米国が輸入車にかける関税を段階的に引き下げることなどで折り合いつつある。保険分野は継続協議となる見通しだ。
首相は15日の記者会見で、TPP交渉参加国も多いアジアの成長を取り込むため、日本製品や農業産品の輸出を促進させる必要があると訴える考えだ。一方で、農業対策も行い、農業団体の懸念払拭に努める方針も示す。新たに交渉参加する国に条件が出されていることに関しては、日本が不利益を被らないように主張していくと説明する。
自民党は13日夜に意見集約を行い、14日に首相への提言を示す予定だ。
党TPP対策委員会(西川公也委員長)の提言案では、TPP参加による食料自給率低下への懸念などを指摘する一方、「交渉に参加しなければ、アジア太平洋地域の成長を取り込めない」と明記。その上で「様々な意見や国際環境を十分に把握した上で、大きな決断をしていただきたい」と首相に判断を委ねている。交渉参加を前提に、交渉状況などを監視する「TPP委員会」(仮称)を党内に新設することも掲げた。
TPP交渉には、米国や豪州など11か国が参加しており、10月に予定するアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議での基本合意を目指している。米議会が新参加国を認める手続きに90日以上かかるため、首相が参加の意思を表明しても、日本が実際に交渉会合に参加するのは、現時点では9月になる見通しだ。

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Laura

[論の現場](4)外国語で「日本」を語ろう(連載)

「日本にあこがれて留学してくるのは、アニメやマンガが好きな学生がほとんど」。立命館大学助教授のノア・マコーマックさんは、こう指摘する。「宮崎駿作品やマンガの最新情報には詳しくても、日本の論壇状況を留学前からよく知っている学生は少ない」
政治・経済の内政問題から国際関係まで、論壇・総合雑誌では多彩なテーマが扱われている。だが、その充実ぶりを海外に広く伝えるには、語学が壁となる。
マコーマックさんは、日本語の論文を英語に訳し、ネット上で公開する「ジャパンフォーカス」に参加している。父のオーストラリア国立大学名誉教授のガバン・マコーマックさんが、アメリカ・コーネル大学のマーク・セルデンさんらと始めた取り組みだ。
「良質の論文を広く伝えよう」と2年前に始まったもので、国内外の研究者らが協力。「予算はゼロ。翻訳もボランティアで、他からの影響を受けないよう、広告掲載も断っている」という。特に、海外の日本研究者には好評だ。
では、日本国内の取り組みはどうか。
「海外に向けて、自分で英語で思想を語ったと言えるのは、日本ではまだ新渡戸稲造(『武士道』)、岡倉天心(『茶の本』)、内村鑑三(『代表的日本人』)の3人しかいないのではないか。先進国の一員として、もっと日本を紹介していく必要がある」
こう語るのは「中央公論」の元編集長で、評論家の粕谷一希さん。今、ジャパンジャーナル社長として、「The Japan Journal」を発行している。
政治・経済から文化・芸能まで内容は幅広い。大使館関係者や知識人を中心に「海外での知名度は高まっている」という。
また、「中央公論」や「文芸春秋」など、日本の論壇・総合雑誌の中から優れた論文をピックアップし、外国語に翻訳して掲載しているのが、「Japan Echo」(ジャパンエコー社)。隔月の英語版に加え、年3回の中国語版「日本論壇」など、計5か国語で刊行されている。
「日本でどのような議論が話題になっているのか、時代を切り取って知らせたい。雑誌の発行は一つの文化貢献といえる」。原野城治社長は意欲を語る。
ネットで、そして活字媒体で。さまざまな形で日本の「論」を知らせる取り組みが広がることで、アニメやマンガばかりではない、多様で、多面的な日本の姿を知ってもらうことができるのではないだろうか。(泉田友紀)

 

Dallin

政治はなぜ嫌われるのか——民主主義の取り戻し方

まずはテストをしていただきたい。あなたは次の三つの言明をその通りだと思うか。
第一、政治家はいくら建前で公共を語っても、実際には自分の利益しか考えていない。第二、政治家は自分の狭い利益を追求することで、最終的には(企業などの)大きな利益にからめとられている。そして第三、政府はせっかくの税金を無駄に使っている。
もし、三つともイエスと答えたなら、あなたは現代の典型的な有権者である。いや、実際その通りではないかと怒らないでいただきたい。著者に言わせれば、現代世界の多くの民主主義国家の有権者が、同じように考えていることが問題なのである。
言い換えれば、このような意見は、各国ごとの政治の評価というより、世界共通の気分である。そして、この気分は1970年代以降に顕著になるが、この時期に一斉に政治家の資質が悪くなったとは考えにくい。だとすれば、むしろ人々の政治への見方が変わったのではないかと著者は考える。
変化の原因は何か。意外な真犯人として浮上するのが、政治学における公共選択論である。このモデルによれば、政治家や公務員は、他の個人と同様、費用と効果を計算し、自己利益を合理的に最大化しようとする存在である。
公共選択論は、市場化や民営化を推進する新自由主義とも相性がいい。結果として、学界のみならず、社会一般の考え方、そして政治家自身にも影響を及ぼすことになった。
が、問題なのは、この考え方が自己実現的であることだ。つまり、人々がそう思えば思うほど、実際になってしまう。政治はますます嫌われ、棄権者が増大するという悪循環となる。
政治を否定すれば、私たち自身の未来の選択能力を否定するばかりだ。今こそ悪循環を断つべきだという著者の考えは一考に値する。

 

Taylor

本音と建前」重要な役割

中国・瀋陽での亡命事件は、「人道的配慮」という国際社会の建前に沿うことで、最悪の事態が回避された。しかし、その裏で、今日、急増する難民受け入れを巡る“本音”の部分が見え隠れしているようである。
今回は人間関係における建前と本音について考えたい。建前は人々の合意によって決められた原則であり、本音は建前について各人が抱く考え方とされている。この二つの組み合わせには、少なくとも次の三つがあるようだ。
〈1〉本音と建前とが完全に食い違っている場合。(例)セールスマンが、気位の高い客に「ご予算の都合がおありでしょうから、決して無理にお勧めいたしません」と言う。しかし、このきれい事の裏に「このくらいの物に手が出せないと思われて、悔しくないんですか。さあ、買って下さいよ」といった本音が隠れている。相手にこちらの建前を本音と思い込ませるプロの巧妙なやり方である。
〈2〉本音と建前の間に本質的な矛盾がない場合。(例)妻は、本音では夫にできるだけ多額の収入をあげて欲しいのだが、「あんまり無理しないで」と、一見建前のブレーキをかける。妻のいたわりの言葉に励まされた夫は、一層遅くまで仕事に精を出すことになる。建前と本音は量的に使い分けられるが、その質と方向では一致している。
〈3〉本音と建前の間に明らかな矛盾がある場合。(例)表面では親はわが子に「お前の進路について一切、干渉しない。自分の好きなことをやりなさい」と、極めて物分かりのいいことを言う。しかし、受験や就職の時期を迎えると、親は自分の描いた青写真に従わせようと圧力をかける。そこで子供は親が本音(果たせぬ夢を子に託したい、など)を暴露したことを知り、反撃に転じることも少なくない。
最近、建前と本音の区別が分からないまま成人に達する人が増えている。この二つは相補的関係にあり、精神のバランスを維持するうえで大きな役割を演じていることを再確認していきたい。

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Dallin – 尖閣 挑戦容認できない」 首相、演説で中国けん制

安倍首相は22日(日本時間23日)にワシントンで行った政策演説で、尖閣諸島(沖縄県石垣市)を巡る中国との問題に関し、「挑戦を容認することはできない。我が国の決意に関し、どの国も判断ミスをすべきではない」と述べた。質疑応答では「私たち自身の力でしっかりと日本の領土を守っていく」と強調し、中国の挑発行為をけん制した。
演説は米有力政策研究機関「戦略国際問題研究所(CSIS)」で行われ、リチャード・アーミテージ元国務副長官ら米国の知日派が多数出席した。
首相は講演で、日米同盟に関し「堅牢(けんろう)ぶりに、誰も疑いを抱くべきではない」と述べた。「日本は二級国家にならない」としたうえで、アジア太平洋地域における法の支配に貢献し、米国や韓国、オーストラリアなど地域の民主主義国家との協力関係を強化する意向を表明した。
首相は尖閣諸島について、「日本の領土であることは法的にも明らか」と述べた。日本が島を領有した1895年と、中国が領有権を主張しはじめた1971年に言及、「(この間)日本の主権に対する挑戦は誰からもない」として、中国の主張は不当との認識を示した。
一方で、首相は「問題をエスカレートさせようとは思っていない」と語った。「私の側のドアは、中国指導者のため常に開いている」として対話を呼びかけるなど、硬軟両様で中国に臨む構えを示した。
首相は同日の内外記者会見でも、「13億の民を統治していくことは、それは大変なことであろうということを、同じ国の指導者として十分に認識している」と述べて習近平(シージンピン)総書記への“共感”を表明した。

 

Laura – 国民新 自民との「合併」模索 石破氏「まず解党がスジ」

国民新党は22日、都内のホテルで緊急議員総会を開き、自見代表の意向に沿って、自民党への「吸収合併」という形で、自民党入りを模索していく方針を決めた。夏の参院選での議席確保が見込めず「風前のともしび」となっているためで、合併が認められれば国民新党を解党する考えだ。だが、自民党内には合併に慎重な考えもあり、実現するかどうかは不透明だ。

国民新党の自見代表、浜田和幸幹事長、野間健衆院議員は22日、議員総会後に党本部で記者会見し、「3人そろって行動する」と述べた。

一方、自民党の石破幹事長は22日の記者会見で、「まずは(国民新党を)解党して、一議員として話すのがスジではないか」と述べ、吸収合併に難色を示した。さらに自見氏の復党についても、「復党することと参院選の候補者になるかどうかは全然別の話だ」と強調した。自見氏は夏の参院選で改選期を迎え、自民党公認で比例選への出馬に意欲を見せている。

石破氏が慎重な背景には、同じ鳥取県を選挙基盤とする浜田氏が、2011年に野党だった自民党に見切りをつけて国民新党に入党した経緯もある。

もっとも、自民党内には「吸収合併で自民党に損はない」との声もある。参院で自民、公明両党は過半数に16議席足りないが、参院議員の自見、浜田両氏が復党すれば、過半数確保に向けて議席が上積みされる。吸収合併なら、2013年分で約2億4600万円(読売新聞社試算)とされる国民新党への政党交付金は、自民党に支払われる。

自見氏らの動きに対し、国民新党内から反発も出ている。先の衆院選で落選した下地幹郎前幹事長は22日、那覇市で記者会見し、自見氏らの対応について、「民主党と(政権運営を)一緒にやってきた経緯の中で、自民党にすり寄ることは国民に理解されない」と批判し、国民新党を離党する考えを示した。

 

Taylor – 施政方針演説 政権交代の果実を具体化せよ

安倍首相の施政方針演説には政権交代を印象づける言葉が目立った。
「自立」をキーワードに「強い日本」を目指す、という基本姿勢は、前向きに評価したい。
首相は、中国などを念頭に、日本の領土・領海・領空と主権に対する挑発が続いていると指摘し、11年ぶりの防衛費増額や国家安全保障会議(日本版NSC)の設置検討に言及した。着実に具体化していくことが重要だ。
中国は今年を海洋強国化元年と位置づけ、海軍を増強している。政府は、力の行使ではなく、法に基づく問題解決の重要性を国際社会に強く訴えねばならない。
首相は日米首脳会談に触れ、安全保障体制の強化のために日本が更なる役割を果たすと語った。集団的自衛権の行使や米軍普天間飛行場の移設など、懸案事項に道筋をつけることが欠かせない。
米国主導の環太平洋経済連携協定(TPP)交渉の参加問題では「聖域なき関税撤廃」が前提ではないことをオバマ米大統領と確認したと説明した。「政府の責任で交渉参加について判断する」と述べ、参加に意欲を示した。
農業団体などの支援を受けた自民党内のTPP慎重派も、参加を容認し、国際交渉を通じてコメなど例外品目を勝ち取る戦術に転換してきている。首相の参加表明の環境は、整いつつある。
自由貿易のルール作りに日本が関与できる時間はあまり残されていない。速やかに参加の手続きを進めて、国益を確保すべきだ。
首相は、「世界で一番企業が活躍しやすい国」を目指すと強調した。責任あるエネルギー政策を構築し、「安全が確認された原発は再稼働する」と述べたが、これだけでは物足りない。
原発再稼働の審査は、原子力規制委員会が新安全基準を決定する7月以降になる。よほど効率的に審査しないと再稼働は進むまい。エネルギーの安定供給とコスト低減がおぼつかなくなる。
首相は率先して再稼働へ指導力を発揮しなければならない。
最後に首相は、与党と足の引っ張り合いをするのではなく、建設的な議論を行い、結果を出そうと野党に呼び掛けた。選挙制度の見直しや憲法審査会の論議促進を求めたのも妥当な認識と言える。
衆参ねじれ国会でも補正予算が参院で可決、成立するなど部分連合の機運が高まっている。与野党の合意形成に期待する。

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Dallin –

参院選候補選定 自民 県連が森屋氏承認 民主 公募に県内外11人=山梨

 ◆「県議の中で最優秀」
今夏の参院選の自民党候補者を決める党県連の「候補者選考・擁立委員会」は21日、森屋宏県議(55)を候補者として承認した。3月3日の人材推薦委員との合同会議で発表し、承認を得た後、党本部に公認申請する。
甲府市の県連本部で開かれた委員会には、委員22人中17人が出席し、欠席者のうち3人は清水武則委員長に委任状を提出。提出せずに欠席した武川勉、高野剛両県議を除く20人の一致で森屋氏が承認された。森屋氏は委員会で、「持ち得るものすべてを総動員して選挙を戦うことを誓う」と語った。
委員会後、記者会見した清水委員長は、森屋氏を「県議の中では最優秀で能力は高い。国会議員候補として最高の人物だ」と絶賛。森屋氏は報道陣に対し、「日本のあり方が問われる今、何としても当選し、新しい日本を作っていく一人として全力を尽くしたい」と述べた。
◆来月決定へ絞り込み
民主党県連は21日、今夏の参院選で山梨選挙区に擁立する候補者の公募に、県内外から11人の応募があった、と明らかにした。公募は12日から自薦と他薦で受け付け、21日締め切った。
同県連によると、公募には男性9人、女性2人の名前が上がり、県連の樋口雄一代表や飯島修幹事長のほか、坂口岳洋・前衆院議員も含まれているという。22日に県連四役らでつくる国政選挙対策委員会を開き、書類選考を行う。その後、有力候補者の意思確認や面談をし、3月16日の県連大会までには1人に絞り込みたいとしている。
飯島幹事長は「12月の総選挙で敗北を喫した状況で、少なくない応募が寄せられた」と評価した。
参院選山梨選挙区では、現職で無所属の米長晴信氏(47)がみんなの党からの出馬に意欲をみせているほか、共産党は新人の遠藤昭子氏(61)、幸福実現党は新人の田辺丈太郎氏(32)の擁立を決めている。
     

Laura –

院選改革 「今国会で」 定数削減も 自民方針確認 きょう3党協議

自民党選挙制度改革問題統括本部(本部長・細田博之幹事長代行)の初会合が21日、党本部で開かれ、国会議員の定数削減を含む衆院選挙制度の抜本改革について、今国会中の法改正を目指す方針を確認した。自民、公明、民主3党は22日の幹事長会談で、法改正に向けた与野党協議の開始では合意する見通しだ。
昨年11月の衆院選挙制度改革に関する3党合意については、自民党内に「今国会で与野党合意まで行えばよい、とも読める」との声があり、民主党は「法改正する気がないのでは」などと反発していた。細田氏は会合後、記者団に「3党合意は必ず実現しようと確認した」と強調した。
一方、民主党政治改革推進本部(本部長・岡田克也前副総理)は21日の役員会で、昨年の衆院選で党の公約に明記した「定数75減」について、小選挙区と比例選の両方を削減対象とする方針を確認した。民主党内には、自民党の対応について「どこまで本気で実現するつもりかは、幹事長会談をやってみないと分からない」とする冷ややかな受け止め方もある。
定数削減の方式や、具体策を巡る3党の立場の違いに加え、抜本改革の行方を不透明にしているのは、最高裁が「違憲状態」とした「1票の格差」の問題だ。
昨年の衆院選では是正が間に合わず、選挙無効訴訟が全国で34件起き、最初の判決は3月6日に東京高裁で予定されている。司法の厳しい判断が相次いだこともあり、政府・与党は衆院選挙区画定審議会(会長・村松岐夫京大名誉教授)が近くまとめる改定案を基に公職選挙法改正案を今国会で成立させ、1票の格差是正を急ぎたい考えだ。ただ、改定案は、最高裁が問題視した各都道府県にまず1議席を割り当てる「1人別枠方式」には実質的には手をつけていない。同法案の審議を優先すれば、抜本改革は遅れざるを得ないとの見方も出ている。

〈衆院選挙制度改革に関する3党合意〉
自民、公明、民主の国会対策委員長が昨年11月16日の衆院解散直前に交わした。合意文書には「衆院議員の定数削減については、選挙制度の抜本的な見直しについて検討を行い、次期通常国会終了までに結論を得た上で必要な法改正を行う」と明記されている。

 

Taylor –
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1       2012.11.27      衆院選 親の名前 有効?無効? 選管 統一基準なく やきもき=青森       東京朝刊    青森      33頁     1009字   06段
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◇12衆院選
◆世襲の田名部氏、津島淳氏
衆院選(12月4日公示―16日投開票)が迫り、1票でも多く確保したい各陣営が回避したいのは、「無効票」。特に世襲議員は、投票用紙に間違えて親の名前を書かないよう、支持者に注意を呼びかける。ただ、候補者以外の名前が書かれた票を「無効」と判断するかどうかは各市町村選挙管理委員会に任せられ、統一的な基準がないのが実情だ。
「今回から父『匡省(まさみ)』の名前を書いても大丈夫だと選管に確認した。前回選挙まで父は現職だったから駄目だったが、引退した今回選は大丈夫」――。18日夜、4期目を目指す民主・田名部匡代(まさよ)氏が、八戸市内で開いた個人演説会で太鼓判を押すと、会場から笑いが起きた。
田名部氏が出馬した3区で候補者以外の氏名が書かれた無効票は、2009年衆院選では606票、05年衆院選は870票。県内の他選挙区の1・5~3倍ほど多かった。
選管は無効票に書かれた名前について明らかにしていないが、田名部氏陣営は大半が長年、国会議員を務め、漢字1字違いの「匡省」票だったとみる。
田名部氏陣営は選挙戦の度、間違えずに「匡代」と記入するよう支持者にお願いをしてきた。
しかし09年衆院選は自民・大島理森氏に367票の僅差で敗れ、比例復活当選だった。後援会幹部は「匡省票が認められていたら(匡代氏は)勝っていた」と悔しがる。
八戸市選管によると、09年衆院選では、現職参院議員だった匡省氏の名前が書かれた票は無効だった。しかし10年に匡省氏が引退。今回衆院選からは「匡代票」とカウントされる。
票の効力を巡る過去の判例の多くが、親の国会議員が〈1〉既に社会的活動を行っていない〈2〉死亡している――などの場合は親の名前を書いても有効だと結論づけているからだ。
1区から出馬予定の津島淳氏の父親は、元厚相の雄二氏。雄二氏は09年衆院選直前に引退しており、仮に、八戸市選管の基準を1区に「適用」すれば、今回衆院選で雄二票は淳票に加えられるはずだ。
しかし、1区を受け持つ青森市選管は「国から基準が示されておらず、開票当日の開票管理者と立会人の協議で決めるとしか言えない」としている。
総務省は「引退議員の地域での位置づけがそれぞれ違うため、国が各選管に画一的に基準を示して縛れるものではない」(選挙課)と説明している。
津島氏陣営は「雄二票はかなりあると思う。有効か無効かはっきりしてほしい」と不満そうだ。

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美しい国へ 安倍晋三

美しい国へ      安倍晋三 Abe Shinzo

 

日米同盟の構図

 

9.11はアメリカを変えたか

二 〇〇一年九月十一日、全世界を恐怖のどん底に陥れた、あのニューヨークの同時多発テロ以降、アメリカは、本質的なところで変わってしまったのか、という議 論がある。おおむね、つぎのような批判だ。〈九・一一の後、アメリカは、一カ月とおかずにテロリストの引渡しを拒否するアフガンに軍事進攻し、さらに、二 年たらずのうちに、大量破壊兵器の所持を理由にしてイラクを攻撃した。フランスやドイツが止めるのも聞かず、アメリカは戦争という最悪の事態まで突っ走っ てしまった。

ブッ シュ大統領が二〇〇二年の「国家安全保障戦略」のなかで「自国を防衛する   権利を行使するため、必要に迫られれば、先制攻撃による単独行動もためらわない」と述べたが、そこには、多国間で協調をはかるという、従来の      国際協調主義は影を潜め、自国の利益追求のためには手段を選ばない単独行動主義が色濃くあらわれている。とりわけ、ネオコンと呼ばれる人たちが、大統領の 外交政策に、強い影響力を与えている――〉

ブッシュ共和党政権が、保守的な理念によって立つ政権であることは事実だし、また、ブッシュ大統領はネオコン=新保守主義と呼ばれる人たちから助言をうけているともいわれている。

アメリカの歴史を振り返ると、その外交の伝統には、独立宣言や憲法にうたわれた理想の考え方をめぐっておおよそ三つのパターンがあるといわれる。

一つめは孤立主義の立場であり、二つ目は理想よりも国益を重んじ、国際政治に   積極的に関与しようとする現実主義的な立場、そして三つめが、理想主義的、福音主義的な    使命感からアメリカ憲法の理念を世界に広めようとする立場である。

この三つは、どれが外交の前面に立つかという違いはあっても、いつの時代にも存在するものだ。したがって、ブッシュ政権がアメリカの歴史のなかで、きわだって特異な政権であるとは思われない。

 

アメリカ人の信じる普遍の価値

では、アメリカ、あるいはアメリカ人の信じる普遍的な価値観とは何か。

アメリカは、神と聖書を信じ、宗教弾圧や迫害から逃れて、世界中から新天地に希望を求めてやってきた人たちが、独立戦争を経て一七七六年、母国イギリスから独立を勝ち取って生まれた国である。

アメリカ建国の父と呼ばれるなかの一人、トマス・ジェファーソンは、自分自身、奴隷を持つ農場主の家に生まれたにもかかわらず、

〈すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は誰からも侵されない   権利を神から与えられている。その権利には、生存、自由、そして、幸福を追求する権利が含まれる〉

という文章からなる独立宣言書を起草した。

実 際にはまだ確立されていない理念であったが、それらは実現されるべき理想として高らかに掲げられた。ジェファーソンをはじめ、ジョージ・ワシントン初代大 統領、ジェームズ・マディソン(第四代大統領)、アレグザンダー・ハミルトン(初代    財務長官ら、アメリカの建国の指導者たちは、この理想こそアメリカの気高さであり、神によってそう運命づけれれていると考えたのである。

一 八〇三年にルイジアナをフランスから、一八一九年にはフロリダをスペインから、そしてテキサスをメキシコから獲得し、さらにフロンティアを求めて西へと膨 張していった過程は、まさに神から与えられたとする「マニフェスト・デスティニー」(明白な運命)のなせるわざであった。

アメリカの国籍をもち、アメリカで生活する多くのひとたちの共通の意識が、この独立宣言にうたわれた理想だとすれば、それは普遍的な価値であるという、絶対の自信に裏打ちされていなければならない。この考えが好きか嫌いか、不遜か傲岸か、という感情論はさておき、そうしたピューリタン的な信仰と使命感がアメリカという国家を成り立たせている源泉なのである。

 

彼らはすでに孤立主義を捨てている

十九世紀の末までのアメリカ外交の主流は、このような普遍的な価値観は合衆国のなかで実現すべきことであり、海外への関与は建国の精神に反する、というもので、とくにヨーロッパにたいしては、この不干渉主義の原則を貫いてきた。

米英戦争(一八一二~十四年)以後のアメリカは、ヨーロッパ大陸から三千マイルはなれていたために、安全保障を無償で享受できた。そのことも孤立主義を保つことができた理由の一つである。

し かし歴史は、アメリカのそうした選択を許してくれなかった。アルフレッド・セイヤー・マハン(一八四〇~一九一四年=アメリカ海軍大学校長、「シーパ ワー」の概念を提唱し、列強の海軍戦略に大きな影響を与えた)は、一八九〇年春に著した『海上権力史論』において、アメリカは経済成長の結果、外の世界に たいするかかわり方を変えねばならないと主張した。建国の精神に反することになっても、海外に勢力範囲を広げようという現実的な対応である。しかし、それ は主流とはなりえなかった(中西輝政『アメリカ外交の魂』集英社)。

一 九一四年に始まった第一次世界大戦では、交戦している国とは同盟関係がなく、国益に直接的な影響がなかったアメリカは、中立を宣言した。しかしアメリカ人 が乗っていたイギリス客船ルシタニア号がドイツのUボートに撃沈されたことなども原因となって、アメリカはその二年後、ドイツに宣戦を布告する。そして戦 争終結後は、パリの講和会議の調停役を担うことになった。

このときアメリカ大統領ウィルソンは、国際連盟の創設を提案し、世界史上初めて、国際機構による平和の維持といいう理想を具体化させたのである。そうしたウィルソンの理想は、牧師を父にもつ敬虔な信仰心に支えられていた。

こうして、いわゆるベルサイユ体制が成立するが、領土分割では、戦勝国のイギリス、フランスの2カ国の利益を優先させ、さらにドイツに過酷な賠償金を課したため、勢力の均衡を欠くことになった。

また民族自決の方針は、東ヨーロッパに小さな民族国家を乱立させ、政治的な不安定をもたらすことになった。このときロシアでは、すでに革命政権が樹立されていた。

ウィ ルソンの理想主義は、破綻に近づいていた。一九一九年、ベルサイユからもどったウィルソンに、アメリカ上院議会が突きつけた結論は、国際連盟への不参加と ベルサイユ条約の批准拒否だった。アメリカの理想は正しいが、ヨーロッパの紛争には巻き込まれたくないというのが、国民の意思表示だったのである。孤立主 義への回帰であった。

一 九二九年に始まった世界恐慌は、ヨーロッパの復興を支えてきたアメリカの好況に打撃を与え、ドイツにおいてナチスの台頭をうながすことになった。一九三三 年にはヒトラーがドイツの首相となり、領土拡張の野心を見せはじめる。二〇年代から政権の座にあったムッソリーニの率いるイタリアも、一九三五年エチオピ アに侵攻、一九三八年には、ナチスドイツがオーストリアとの合併を行った。

日本、ドイツ、イタリアは、あいついで国際連盟を脱退、「アメリカは自由の理念を世界に広めるという特別な使命をもつ」と宣言したウィルソンの理想は、ここにいたって、挫折をよぎなくされることになる。

一 九四一年の日本の真珠湾奇襲攻撃は、アメリカ外交に決定的な変更をせまることになった。いまや孤立主義を捨て、自分たちの信じる独立宣言や憲法にうたわれ たアメリカの価値観を世界に広げなければならない――理想主義の追求が、はっきりと外交にもちこまれたのは、このときからである。以来、今日まで民主党で あれ、共和党であれ、アメリカは、パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)を基本的に信じ、主張してきたのである。

 

アメリカ保守の自信はどこから来ているのか

自由と民主主義を広げようという使命感に加え、アメリカは、一国で世界の軍事費の四〇%を占めるという比類なきパワーをもっている。

ネ オコンの代表的論客の一人、ロバート・ケーガンは、ヨーロッパとアメリカの世界観の違いについて、著書「楽園と力について」(邦題『ネオコンの論理』)の なかで、一七世紀のイギリスの法哲学者トマス・ホッブスの著書『リヴァイアサン』をとりあげて、アメリカの力を説明している。『リヴァイアサン』には次の ような一節がある。

人 間は生まれつき自己中心的で、その行動は欲望に支配されている。人間社会がジャングルのような世界であれば、万人の自然の権利である私利私欲が激突しあ い、破壊的な結末しか生まない。そんな「自然状態」のなかの人間は、孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短いものになる。だから人々は、互いに暴力を振るう 権利を放棄するという契約に同意するだろう。しかし、そうした緊張状態では、誰かがいったん破れば、またもとの自然状態に逆戻りしかねない。人間社会を平和で、安定したものにするには、その契約のなかに絶対権力を持つ怪物、リヴァイアサンが必要なので。

ロバー ト・ケーガンは、このリヴァイアサンこそがアメリカの役割であり、そのためには力をもたなくてはならないという。そして力の行使をけっして畏れてはならな い。ヨーロッパはその力の蓄積を怠ったがゆえに、結局アメリカに頼るしかなくなったのだ、ヨーロッパが国際機関の下で、「平和」というカント的世界に安住 できるのは、アメリカが、ホッブスのいう「自然状態」に対処しているからだ、と。

一九八〇年代、アメリカに対する強い愛着と敬虔な信仰心の持ち主であったレーガン大統領は、ソビエト連邦を「悪の帝国」といい放ち、ソ連の核脅 威にたいして、それをしのぐ戦略で立ち向かった。アメリカ本土を攻撃するソ連の核ミサイルを、レーザー兵器などによってすべて途中で撃ち落すという防衛計 画(SDI= 戦略防衛構想)もそのひとつだった。そんな夢物語みたいなことは、できはしない。人びとは、揶揄をこめて“スター・ウォーズ計画”と呼ん だ。

こ の計画には膨大な予算が必要だったが、アメリカ国民は、「国民を人質にとる核抑止戦略は不道徳であり、自由の国アメリカが、けっして恐怖にさらされること があってはならない」というレーガンの言葉を支持した。ソ連はこれに太閤しようとするが、巨額の 軍事費の出費に耐えられなくなり、とうとう財政は破綻、崩壊の道をたどっていった。東西冷戦の終結である。

レー ガンは、最後にはソ連のゴルバチョフ書記長との間で中距離核戦力全廃条約(INF協定)を結ぶことになるが、アメリカの力による勝利は 歴然だった。このことについて、異議を唱えるものは、一部のリベラルを除いて、いまのアメリカにはほとんどいない。レーガンの勝利は、そのままアメリカの 保守主義者たちの大きな自信になったのである。

か れらは、ソ連社会主義の崩壊を目の当たりにして、自分たちの主張の正しさを確信したのだった。ネオコンもおなじだった。ただ、かれらが従来の保守主義者と 少し違うのは、もともとリベラルだったために社会改革、とりわけ政府の関与について、はっきりしたビジョンをもっている点であろう。

 

リベラルが穏健というわけではない

とはいうものの、現在のアメリカの外交には二つの考え方があるのはたしかだ。

一 つは、二十一世紀のグローバル化した時代には、アメリカのスーパーパワーをもってしてもコントロールできない問題がつぎつぎに起きるから、軍事力のみに頼 らず、他国を魅了する政治的イニシアティブを発揮するなどして、国際的な協調に外交の比重を置こうという意見だ。かつてクリントン民主党政権で国防次官補をつとめたジョセフ・ナイに代表される、いわゆる国際協調主義の発想である。

も う一つが、混沌の時代だからこそ、世界の安定の基礎には、アメリカの軍事力が不可欠なのであり、アメリカと利益の相反する国と妥協することは、国益を損な うばかりか、世界を 不安定に導く。だからアメリカは、超大国)の地位を長く保ち、必要に応じて行動しなければならなず、それが世界の安定につながるのだ、とする  単独行動主義である。しかし、どちらも、アメリカの理念を信じ、アメリカの世界のなかで絶対的に優位な立場を保つべきであるという点では、その価値観に決 定的な違いはない。

日本には、アメリカの民主党はソフトで、共和党のほうが強硬だというイメージをもっている人がよくいるが、それは歴史的にみれば大きな誤解だ。

ケネディ大統領は一九六一年一月、就任演説で、

「我々に行為を持つ者であれ、敵意を持つ者であれ、すべての国をして次のことを知らしめよ。我々は自由の確保とその勝利のためには、いかなる代償も支払い、いかなる負担も厭わず、いかなる困難にも進んで直面し、いかなる友人も助け、いかなる敵とも戦う、ということを」

といった。

ブッシュ大統領がこれと同じことをいえば、おそらく「何と好戦的な」とわれるだろう。ケネディはリベラルの代表格であり、民主党出身の大統領である。アメリカの大統領は、表現こそ違え、じつは代々、同じような主張をしているのである。

 

アメリカの民主主義の論理とは

ア メリカは、「なんびとも生まれながらにして平等であり、誰でも生存と自由と幸福を追求する権利を神から与えられている」という理念を信じる個々人の、合意 のうえでつくりだされた国である。だから、かれらが正統だと考える民主主義とは、そこに住まう個々人が納得して決めた権力や制度であって、それ以外の方法 でつくりだされたシステムは無効だと考えるのだ。

アメリカという国には、日本のように百二十五代にわたって天皇を戴いてきたという歴史があるわけではない。また、ヨーロッパの国々のように、長い間王権に    支配されていたこともない。日本やヨーロッパとは、成り立ちがそもそも違うのである。その意味では、アメリカは、つとめて人工的な国家であり、しかも建国から二百年すこししか経っていないことを考えれば、成功した“実験国家”だといってもよい。

 

憲法前文に示されたアメリカの意志

占領軍のマッカーサー最高司令官は、敗戦国日本の憲法を制定するに あたって、天皇の存置、封建制を廃止すること、戦争を    永久に放棄させることの三つを原則にしtくぁ。とりわけ当時のアメリカの日本にたいする姿勢が色濃くあらわれているのが、憲法九条の「戦争の放棄」の条項 だ。アメリカは、自らと連合国側の国益を守るために、代表して、日本が二度と欧米中心の秩序に挑戦することのないよう、強い意志をもって憲法 草案の作成にあたらせた。

そして「国家主権の発動をしての戦争」「紛争を解決する手段としての戦争」は     もとより「自国の安全を守るための戦争」まで放棄させようとしたのである。また、戦力を保持することはもちろん、交戦権すら認めるべきでないと考えた。

かわりに担保として与えられたのが、憲法前文の、

《平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した》

というくだりだ。つまり、日本国民の安全と生存は、諸外国を信用してすべてを委ねよ、というわけである。まさに憲法第九条の“枕詞“になっている。

憲法前文には、敗戦国としての連合国に対する“詫び証文”のような宣言がもうひとつある。

《われわれは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい》

という箇所だ。

こ のときアフリカはもちろん、ほとんどのアジア諸国はまだ独立していないから、ここでいう《専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている 国際社会》とは、おもに連合国、つまりアメリカを始めとする列強の戦勝国をさしている。ということは、一見、力強い決意表明のように見えるが、じつは、こ れから自分たちは、そうした列強の国々から褒めてもらえるように頑張ります、という妙にへりくだった、いじましい文言になっている。

前 文にちりばめられた「崇高な理想」や「恒久の平和」という言葉には、アメリカがもつ自らの理想主義を日本で実現してみせようとする強い意志がいま見える。 この憲法草案は、ニュウーディーラーと呼ばれた進歩的な若手のGHQ(連合国軍総司令部)スタッフによって、十日間そこそこという短期間で書き上げられた ものだった。

 

“戦力なき軍隊”の矛盾

さて、当時、草案づくりにあたった民政局ですら首をかしげたといわれる憲法第九条の規定は、いっぽうで独立国としての要件を欠くことになった。

一九五〇年に朝鮮戦争が勃発し、アメリカの占領軍が朝鮮半島に展開すると、マッカーサー司令官は、手薄になった日本にソ連が侵攻してくるのを心配して、日本政府に防衛のための部隊の創設を要求した。ただちに警察予備隊が組織されたが、表向きは国内の治安維持のためだった。

一九五一年、日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、主権を回復、正式に独立した。だが同時に日米安保条約が結ばれると、こんどは国会で、この戦争放棄を定めた憲法九条についての論争が起きる。警察予備隊は、憲法で禁じた「戦力」ではないか、という議論である。

敗戦のショックと戦前の国家に対するアレルギーは、戦争に対する深刻な反省とあいまって、予想以上に大きいものだったのだ。予備隊の設置が連合国軍の指令によるものだったにもかかわらず、憲法に忠実であるべきだという反応のほうが強かった。

翌年、警察予備隊が、保安隊に改組されたとき、吉田内閣は、

「憲法でいう『戦力』とは、近代戦争が遂行できる装備や編成を備えているものをさす。保安隊はもともと警察であって、この程度の実力のものは、戦力とは言わない。これを侵略からの防衛に使うことは、違憲ではない」

と説明した。しかしこの矛盾に満ちた無理な説明は、後に日本の安全保障にとって大きな障害となる可能性をはらんでいた。五三年、吉田茂首相は、国会の自衛隊創設をめぐる質疑のなかで「戦力を持つの軍隊にはいたさない」と答弁した。有名な“戦力なき軍隊”の誕生である。

五 四年、保安隊に代わって自衛隊が発足すると、政府は、「自国に対して武力攻撃が加えられた場合、 国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」、さらに、憲法九条第二項が禁じている「戦力」についても、「自衛のための必要最小限 度をこえるものであって、それ以下の自衛力は、せんりょくではない。したがって自衛隊は違憲ではない」という見解を明らかにする。以降、歴代の政府は、自 衛隊の存在と憲法との整合性を憲法の解釈によって、うまく成り立たせようとしていくのである。

講 和条約といっしょに締結された九日米安保条約には、「自国の防衛のだめ漸増的に自ら責任を負うことをきたいする」と、日本の努力目標まで明記されていた が、実際は、逆の道をたどることになった。なぜなら、創設当初から、外国からの侵略など有事のときに対処するのは    米軍であって、自衛隊は、おもに国内の治安維持にあたるという、米軍の補完的な役割しか与えられていなかったからだ。

 

日本とドイツ、それぞれの道

こ のとき与党の自由党のなかには、「独立国として、占領軍から押し付けられたものではない、自前の憲法をつくるべきである」、また、「国力に応じた最小限度 の軍隊をもつのは当然で、自衛隊を軍隊として位置づけるべきだ」と主張する人たちがいた。その思いは、もうひとつの保守政党、民主党も同じだった。どもに 戦後体制からの脱却をめざしていたのである。

一 九五五年の保守合同(自由民主党の成立)は、まさにこの目的を実現するためだったが、このときの日本は敗戦からまだ十年しかたっていない。経済力の回復が 最い優先だった。しかしその選択は、いっぽうで、国家にとってもっとも大切な安全保障についての思考をどんどん後退させてしまった。経済成長と軽武装路線 ――それはとりもなおさず、自国の安全保障のほとんどをアメリカに委ねるという選択であった。

戦 後日本は、軍事費をできるだけ少なく抑え、ほかの投資にふりむけてきたからこそ、今日の発展がある、というのがほぼ定説となっている。たしかに戦争で破壊 されたインフラ整備に国家資源を集中することはできた。しかしいっぽう、戦後、相当の軍事費を費やして重武装した旧西ドイツも、日本同様経済発展をとげて いるのである。

戦 争に負けたドイツは、戦勝国の米・英・仏・ソ連によって分割されて占領統治されるが、一九四九年、自由主義国である米・英・仏三国の占領地が西ドイツ(ド イツ連邦共和国)として再出発すると、一九五五年、主権回復と同時に国防軍を創設し、軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。そればかり か、西ドイツは、東西統一まで三十六回も基本法(憲法)を改正し、そのなかで徴兵制の採用は非常事態に対処するための法整備までおこなっている。

いうまでもなく米ソの冷戦の最前線にあって、ソ連社会主義の脅威にさらされていたからだった。西側諸国の要請もあった。

戦後西ドイツの初の首相になったアデナウアーは、一九五〇年の連邦議会で、次のように述べた。

「皆さん、健全な感覚を持つドイツ人ならすべて、みずからのふるさと、みずからの自由を守ることは、避けられないきまりごとであるはずです」

そこには、つねに外的と接してきた国民の、軍隊に対する考え方の基本的な違いがあった。さらにアデナウアーは、国民に残る軍隊アレルギーを払拭するため、一九五二年、同じ連邦議会で次のような演説をおこなった。

「わ たしは本日、議会にたいし、連邦政府の名において宣言いたします。高貴な軍の伝統にもとづき、地上や海上あるいは空で戦ったわれらの兵士すべてを、われわ れは賞賛する。ドイツ軍人の名声と偉大な功績は、過去数年間に、あらゆるそしりを受けましたが、それdもなお生きつづけているし、さらに生きつづける、そ うわれわれは確信しているのです。さらに、われわれはそれを解決できるとわたしは信じているのでありますが、あれわれは共通の使命として、ドイツ軍人の道 徳的価値を民主主義と融合させねばならないのです」

い まも残る徴兵制度は、職業軍人の暴走を防ぐために、軍隊を「制服を着た市民」からなるものにしておく、というのが理由のひとつだといわれる。西ドイツのテ オドール・ホイス初代大統領は、「国防の義務は民主主義の正統な子である」といった。もちろん民主主義国として「良心的忌避」の権利が担保されている。ひ るがえって日本の戦後はどうだっただろうか。安全保障を他国にまかせ、経済を優先させることで、わたしたちは物質的にはたしかに大きなものを得た。だが精 神的には失ったものも、大きかったのではないか。

日本では、安全保障について考えることは、すなわち軍国主義であり、国家はいかにあるべきかを考えることは、国家主義だと否定的にとらえられたのである。それほど戦前的なものへの反発は強く、当時の日本人の行動や心理は屈折し、狭くなっていった。

 

なぜ日米同盟が必要なのか

一九六〇年の日米安保条約改定のときの交渉が、現在ようやく明らかになりつつあるが、そのいじましいばかりの努力は、まさに駐留軍を、   占領軍から同盟軍に変える、いいかえれば、日本が独立を勝ち取るための過程だったといってよい。しかし同時に日本は、同盟国としてアメリカを必要としていた。なぜなら、日本は独力で安全を確保することができなかったからである。

その状況はいまも変わらない。自国の安全のための最大限の自助努力、「自分の国は自分で守る」という気概が必要なのはいうまでもないが、核抑止力や極東地域の安定を考えるなら、米国との同盟は不可欠であり、米国の国際社会への影響力、経済力、そして最強の軍事力を考慮すれば、日米同盟はベストの選択なのである。

さらに確認しておかなけらばならないのは、今日、日本とアメリカは、自由と民主主義、人権、法の支配、自由な競争――市場経済という、基本的な価値観を共有しているという点だ。それは世界の自由主義国の共通認識でもある。

で は、わたしたちが守るべきものとは何か。それはいうまでもなく国家の独立、つまり国家の主権であり、わたしたちが享受している平和である。具体的には、わ たしたちの生命と財産、そして自由と人権だ。もちろん、守るべきもののなかには、わたしたち日本人が紡いできた歴史や伝統や文化がはいる。それを誇りとい いかえてもよいが、それは、ほかのどこの国も同じで、国と国との関係においては、違う歴史を歩んできた国同士、おたがいに認めあい、尊重しあって信頼を醸 成させていくことが大切なのである。

 

“行使できない権利”集団的自衛権

日米同盟の軍事同盟としての意味についてだが、安保条約の第五条にはこうある。

「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険の対処するよう行動することを宣言する」

し かしわが国の自衛隊は、専守防衛を基本にしている。したがって、たとえば他国から日本に対してミサイルが一発打ち込まれたとき、二発目の飛来を避ける、あ るいは阻止するためには、日本ではなく、米軍の戦闘機がそのミサイル基地を攻撃することになる。いいかえればそれは、米国の若者が、日本を守るために命を かけるということなのである。

だ が、条約にそう規定されているからといって、わたしたちは、自動的に、そうするものだ、そうなるのだ、と構えてはならない。なぜなら命をかける兵士、兵士 の家族、兵士を送り出すアメリカ国民が、なによりそのことに納得していなけらばならないからだ。そのためには、両国間に信頼関係がこうちくされていなけれ ばならない。

キッシンジャー元国務長官は、「同盟は『紙』ではなく『連帯感』である」といった。信頼に裏打ちされた連帯感。それがない条約は、ただの紙切れにすぎないという意味である。

現在の政府の憲法解釈では、米軍は集団的自衛権を行使して日本を防衛するが、日本は集団的自衛権を行使することはできない。

こ のことが何を意味するかというと、たとえば、日本の周辺国有事のさいに出動した米軍の兵士が、公海上で遭難し、自衛隊がかれらの救助にあたっているとき、 敵から攻撃を受けたら、自衛隊はその場から立ち去らなければならないのである。たとえその米兵が法人救助の任務にあたっていたとしても、である。

双務性を高めることは、信頼の絆を強め、より対等な関係をつくりあげることにつながる。そしてそれは、日本をより安全にし、結果として、自衛力も、また集団的自衛権も行使しなくてすむことにつながるのではないだろうか。

権利があっても行使できない――それは財産に権利はあるが、自分の自由にはならない、というかつての“禁治産者”の規定に似ている。

日本は一九五六年に国連に加盟したが、その国連憲章五十一条には、「国連加盟国には個別的かつ集団的自衛権がある」ことが明記されている。集団自衛権は、  個別的自衛権と同じく、世界では国家がもつ自然の権利だと理解されているからだ。

い まの日本国憲法は、この国連憲章ができたあとにつくられた。日本も自然権としての集団防衛権を有していると考えるのは当然であろう。権利を有していれば行 使できると考える国際社会の通年のなかで、権利はあるが行使はできない、とする理論が、はたしていつまで通用するのだろうか。

行 使できるということは、行使しなければならないということではない。それはひとえに政策判断であり、めったに行使されるものではない。ちなみに一九四九 年、国連憲章にもとづいて発足したアメリカとヨーロッパ諸国による北大西洋条約機構(NATO)では、集団防衛機構であるにもかかわらず、集団的自衛権は 五十年間一度も行使されたことがなかった。行使されたのは、九・一一米国同時多発テロのあとのアフガン攻撃がはじめてである。

 

“交戦権がない”ことの意味

軍 事同盟とは、ひとことでいえば、必要最小限の武力で自国の安全を確保しようとする知恵だ。集団的自衛権の行使を担保にしておくことは、それによって、合理 的な日本の防衛が可能になるばかりか、アジアの安定に寄与することになる。またそれは結果として、日本が武力行使をせずにすむことにもつながるのである。

アメリカのいうままにならずに、日本はもっといいたいことをいえ、という人ががいるが、日米同盟における双務性を高めてこそ、基地問題を含めてて、わたしたちの発言力は格段に増すのである。

もうひとつ、憲法第九条第二項には、「交戦権は、これを認めない」という条文がある。これをどう解釈するか、半世紀にわたって、ほとんど神学論争にちかい議論がくりかえされた。

ど この国でももっている自然の権利である自衛権を行使することによって、交戦になることは、十分にありうることだ。この神学論争は、いまどうなっているか。 明らかに甚大な被害が出るであろう状況がわかっていても、こちらに被害だ生じてからしか、反撃できないというのだ、憲法解釈の答えなのである。

た とえば日本を攻撃するために、東京湾に、大量破壊兵器を積んだテロリストの工作船がやってきても、向こうから何らかの攻撃がないかぎり、こちらから武力を 行使して、相手を排除することはできないのだ。わが国の安全保障と憲法との乖離を解釈でしのぐのは、もはや限界にあることがお分かりだろう。

 

「大義」と「国益」

二〇〇三年十一月の特別国会の予算委員会で、日本政府がイラクに自衛隊を派遣するに当たって、私は、小泉総理にこう質問した。

「イラクが危険な状況にあるかないかはまずさておいて、最高司令官である総理は、国民と自衛官、そしてそのご家族に、この派遣は、日本という国家にとってどんな重要な意義があるのか、つまり『大義』をしっかりと説明する必要があるのではないか」

というのも、このとき、ともすると多くの国民に、日本はアメリカにいわれて、いやいやながら自衛隊を派遣するのではないか、と思われていたからだ。

では、自衛隊派遣の大義とは、なんだったのか。

第 一に、国際社会が、イラク人のイラク人によるイラク人のための、自由で民主的な国を作ろうと努力しているとき、その国際社会の一員である日本が貢献するの は当然のことであり、それは先進国としての責任である。イラクが危険な状況にあるかないかが問題だ、という人がいるが、自衛隊は戦闘にいくのではない。給 水やインフラ整備などの人道・復興支援にいくのである。治安が悪化しているのだったらなおのこと、日頃から訓練をつんでいる自衛隊にこそ可能なのではない か。

第二に、日本は、エネルギー資源である原油の八十五パーセントを中途地域にたよっている。しかもイラク原油の埋蔵量は、サウジアラビアについで世界第二位。この地域の平和と安定を回復するということは、まさに日本の国益にかなうことなのである。

二〇〇三年十二月九日、小泉総理は、イラク復興支援特別措置法に基づいて自衛隊派遣の基本計画を閣議決定した。そして派遣の理由を、テレビカメラをとおして、直接国民に語りかけた。

自衛隊派遣はけっしてアメリカの要請に諾々としたがったのではなく、日本独自の選択であり、内閣総理大臣自ら発した命令であることを印象づけることになった。

 

お金の援助だけでは世界に評価されない

自衛隊が初めて海外に派遣されたのは、湾岸戦争のあと停戦が発効した一九九一年四月のことである。ペルシャ湾にはまだイラクが敷設した機雷が数多く残っていた。日本のタンカーを含む各国の船舶は危険にさらされていて、その除去のためだった。

湾岸戦争ではクウェートに侵攻したイラクに対して国連決議による多国籍軍が派遣されたが、憲法上の制約から軍事行動のとれない日本は、参加しなかった。そこで、かわりに、と申し出たのが百三十億ドルという巨額の資金援助であった。

しかし、湾岸戦争が終わって、クウェート政府が「ワシントンポスト」紙に掲載した「アメリカと世界の国々ありがとう」と題した感謝の全面広告のなかには、残念ながら日本の名前はなかった。

このとき日本は、国際社会では、人的貢献ぬきにしては、とても評価などされないのだ、という現実を思い知ったのである。

ところが、日本と同じように軍事力の行使にきびしい枠をはめられているため多国籍軍に参加できなかったドイツは、停戦成立後、ただちに人道支援の名目で掃海部隊の派遣を決めていた。人的貢献の意味をわかっていたのだ。

機雷除去は、船舶が航行するための安全確保であって、武力行使を目的としていないことは明らかである。すでにアメリカ、フランスなど数カ国が掃海作業に当たっていたが、日本も遅ればせながら掃海部隊の派遣を決めた。それほどドイツの派遣決定の衝撃はおおきかった。

政府が海外派遣の根拠にしたのは、日本周辺の「船舶の航行の安全確保」を目的につくられた、自衛隊法第九十九条の「海上自衛隊は、長官の命を受け、海上における機雷その他の爆発性の危険物の除去及びこれらの処理を行うものとする」という規定だった。

もちろん野党は、こぞって反対である。「なし崩し的に海外派兵につながる」というのがその理由だ。社会党は、当時、自衛隊の存在を憲法違反としているにもかかわらず、まず自衛隊法を改正すべきだと、理解に苦しむ議論を展開していた。

日本は、戦後ただの一度も武力行使をおこなったことはない。機雷除去がどうして武力行使の危険の海外派兵につながるのだろうか。しかも日本は、終戦直後に、周辺海域の機雷1万個を掃海した実績があって、掃海では世界でも一級の技術をもっているのだ。

賛否うずまくなか、掃海艇四隻、母艦、補給艦各一隻のペルシャ湾掃海艇部隊がようやく組織され、五百十一人の自衛隊員によって、九十九日間にわたる機雷除去作業が行われた。この結果、日本は三十四個の機雷を処理するという成果をあげることになった。

 

自衛隊が独自に戦線を拡大したか

こうして私たちは、憲法の許す範囲で、目に見える、人的国際貢献のありかたをせいいっぱい模索してきた。一九九二年六月、PKO協力法(国連平和維持活動などに対する協力法)の成立は、まさにそのターニングポイントになるものだった。

周知のようにPKOとは、国連の主導で紛争地域の平和維持にあたる要員を派遣することである。この法律の成立によって、わが国の自衛隊は、紛争地域の監視や紛争の仲裁、治安回復、復興に参加することができるはずであった。

し かし派遣に際しては、きびしい枠がはめられた。日本が参加するにあたっては、①紛争当事者の間で停戦合意が成立していること、②紛争当事者がPKO活動と 日本の参加に同意していること、③中立な立場を厳守すること、④これらの原則がひとつでも満たされなくなった場合は即時撤収する、という縛りのほか、⑤自 衛隊のための武器使用は必要最小限にする、という条件も加わった。いわゆる「PKO参加五原則」である。

と ころが、ここでも当時の社会党や共産党をはじめ多くのマスコミは、このPKO法を、憲法違反であり、侵略戦争への道を開くものだと非難した。あれから十四 年たったいま、PKOへの参加は都合九回(二〇〇五年十一月現在)におよぶが、はたして日本は侵略戦争への道をたどっているだろうか。自衛隊が独自に戦線 を拡大していくようなことをしただろうか。

 

武器使用を制限されて海外へ

自 衛隊が初めてPKOに参加したのは、PKO協力法成立の三カ月後の九二年九月、派遣先はカンボジアだった。七九年に誕生したヘン・サムリン政権と、ポル・ ポト派など三派との間に和平合意が成立し、十二年におよぶ内戦は終わりを告げた。   国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視の下で、民主的な選挙がおこなわれることんになった。

国際平和協力業務には、大きく分けて、停戦状況や武装解除の監視、放棄された武器の収集や処理などの「平和維持活動」と、輸送や補給、あるいは道路や橋の補修といった「後方支援」がある。しかし法案審議の過程で、前者の業務は、いわゆる本隊業務、つまりPKF(平和維持隊)にあたり、きわめてきけんであるとして、凍結されてしまっていた。

国 際協力をおこなうかどうかという国会審議のとき、わが国ではかならずといっていいほどでるのが、自衛隊の海外派兵はきんじられているのだから、自衛隊と切 り離した、文民を主体とする別の組織をつくるか、どうしてもというのなら、軍事行動をともなわない民生部門に限る、という議論である。このときもそうだっ た。

停戦がとりあえず成立したとはいえ、武装解除も完全におこなわれておらず、硝煙冷めやらぬカンボジアで、危険がない活動など可能だろうか。

国論を二分する議論の末、日本は、自衛隊の施設部隊六百人の派遣を決定、UNTACの指揮下に入って、国道の補修工事の任務に当たることになった。

じっさい、日本の施設部隊は、任務こそ後方支援だったが、所属したのは、UNTACの軍事部門だった。選挙監視員の安全を確保するため、国道の舗装工事を中断して、投票所の\巡回に行くこともあった。

常識でいえば、いつポル・ポト派の武装勢力がおそってくるかもしれないから、隊員の安全のために、十分な武器を持たせようというのがふつうだが、国会で野党からは、そうした意見は、ついぞ聞かれなかった。

 

自衛隊が日本人を守れない現実

幸 い自衛隊員には被害がなかったが、ほかに犠牲者が出た。このとき政府は、自衛隊とは別に、民間ボランティアの選挙監視員と、現地の警察に助言や指導を行 う、いわゆる文民警察官を派遣していた。九三年四月に、選挙監視員の中田厚仁さんが何者かに射殺され、つづいて五月には、文民警察官の高田晴行警部補が武 装グループの襲撃をうけて死亡したのだ。

文民警察官たちは、停戦合意が守られているという理由から、丸腰で派遣されていたのだった。

ではなぜ、プロである自衛隊員も、彼らを守ることができなかったのか。PKO法では、武器使用が自衛の場合以外は禁じられているので、警護の任務はできないことになっている――これが当時の内閣法制局の解釈である。

政 府は、自衛隊派遣についての憲法上の議論はあったが、文民に対する安全の配慮に欠けていたと反省した。その安全と配慮とは、武器使用が武力行使になる危険 のある場合には、PKOの参加を中断するか、あるいは撤収するというものだった(一九九一年十二月四日、参院本会議)。

 

武 装解除が完全に行われていないなか、各国が和平の実現に向けて、危険と背中合わせになりながら汗を流しているのに、武力行使は憲法で禁じられているからと いって、日本だけが中断や撤収することができるのだろうか。憲法という制約を逆手にとって、きれいな仕事しかしようとしない国が、国際社会の目に、ずるい 国だと映っても不思議はない。

カ ンボジアの治安状況が悪化するなか、陸上幕僚長は、「なぜ自衛隊が日本人を守ることができないのか」と悩む隊員に、知恵を絞ったすえ、武器使用の規定が 「自己と共に現場に所在する他の隊員」としているところに目をつけて、「施設部隊が補修する道路や橋についての情報収集は、当然の任務。その途中で投票所 に立ち寄ったとき、そこにいる監視員は『共に所在する隊員』の範疇にはいる」と、指示したと言う。

実 際、国会の議論と現地の実情は、大きく乖離していた。銃を持っていると、敵とみなされてかえって危険、だとか、機関銃は、二挺では軍事活動になるから、一 挺にせよ、とか、およそ情緒的な議論だった。機関銃というのは、一挺では百八十度しかカバーできない。二挺装備してはじめて、後ろも前も三百六十度カバー できるものなのである。

 

制限だらけの自衛隊の行動基準

こうした自衛隊に 対する国民の考え方も、国際情勢の激変とあいまって、大きく変わってきた。二〇〇一年十二月には、PKO協力法が改正され、凍結されていたPKF(国連平 和維持隊)への参加が解除された。これで、これまでの後方支援から停戦や武装解除の監視、あるいは放棄された武器の収集、処分といった幅広い国際協力が可 能になった。また。カンボジアの苦い経験から、武器使用の制限も、正当防衛の範囲内で緩和された。

従 来、“自分または自分といっしょに現場にいる他の隊員が危険にさらされた場合”しか、武器使用がゆるされなかったものが、近くにいる外国のPKO要員や被 災民、政府の要人や新聞記者、ボランティアなども「自己の管理下」に入ったとみなして防御できるようになった。車両や物資が襲撃を受けた場合も同様であ る。ただし、自衛隊の活動地域に不法に侵入する者に対しては、威嚇射撃をしたり、銃をむけたりすることはできないことになっている。

外 国の軍隊では、当然のこととして認められていることが自衛隊では認められない。外国の軍隊の基準が、国際法の範囲内で「これはやってはいけないが、ほかは よい」ということを決めたネガティブリストであるのに対し、自衛隊の基準は、「ほかはだめだが、これだけはしてもよい」というポジティブリストである、と よくいわれるのは、日本は憲法の拘束がきつく、政策判断の余地がほとんどないためである。

 

自衛隊をめぐる議論が変わった

二〇〇三年七月、日本は、イラク戦争後の復興支援のために、特措法(イラク人道復興支援特別措置法)を成立させた。戦争は終結したとはいえ、国内の治安が安定していないイラクで支援活動をおこなうには、自衛隊をおいてほかにはない。

派遣にあたっては、さまざまな議論があったが、わたしが、時代が大きく変化してきたな、とつくづく感じたのは、自衛隊の派遣地域が戦闘地域かどうか、という国会論戦がおこなわれたころである。

自 衛隊をイラクに派遣するときには、むしろ「危険な目にあうのではないか」と、自衛隊に温かい目をむける人のほうが大勢を占めた。この結果、サマーワには、 きちんとした装備で行くことができた。その意味では、自衛隊をめぐる議論は、この十年を経て、成熟過程に入ってきたといえる。

 

日米同盟の構図

 

I.漢字

1.同盟 (どうめい)

2.構図 (こうず)

3.恐怖 (きょうふ)

4.陥れる(おとしいれる)

5.同時多発 (どうじたはつ)

6.本質的 (ほんしつてき)

7.引渡し (ひきわたし)

8.進攻 (しんこう)

9.大量破壊兵器 (たいりょうはかいへいき)

10.所持 (しょじ)

11.保障 (ほしょう)

12.戦略 (せんりゃく)

13.行使 (こうし)

14.先制 (せんせい)

15.単独 (たんどく)

16.協調 (きょうちょう)

17.濃い (こい)

18.理念 (りねん)

19.助言 (じょげん)

20.孤立 (こりつ)

21.関与 (かんよ)

22.使命感 (しめいかん)

23.特異 (とくい)

24.普遍 (ふへん)

25.弾圧 (だんあつ)

26.迫害 (はくがい)

27.建国 (けんこく)

28.奴隷 (どれい)

29.追求 (ついきゅう)

30.起草 (きそう)

31.初代 (しょだい)

32.財務 (ざいむ)

33.長官 (ちょうかん)

34. 運命 (うんめい)

35.膨張 (ぼうちょう)

36.裏打ち(うらうち)

37.源泉 (げんせん)

38.不干渉 (ふかんしょう)

39.無償 (むしょう)

40.享受 (きょうじゅ)

41.概念 (がいねん)

42.提唱 (ていしょう)

43.列強 (れっきょう)

44.主流 (しゅりゅう)

45.客船 (きゃくせん)

46.撃沈 (げきちん)

47.調停 (ちょうてい)

48.牧師 (ぼくし)

49.領土 (りょうど)

50.分割 (ぶんかつ)

51.過酷 (かこく)

52.賠償 (ばいしょう)

53.均衡 (きんこう)

54.乱立 (らんりつ)

55.樹立 (じゅりつ)

56.破綻 (はたん)

57.批准 (ひじゅん)

58.紛争 (ふんそう)

59.恐慌 (きょうこう)

60.好況 (こうきょう)

61.打撃 (だげき)

62.台頭 (たいとう)

63.野心 (やしん)

64.脱退 (だったい)

65.挫折 (ざせつ)

66.奇襲 (きしゅう)

67.比類 (ひるい)

68.論客 (ろんきゃく)

69.著書 (ちょしょ)

70.私利私欲 (しりしよく)

71.破壊 (はかい)

72.卑劣 (ひれつ)

73.残酷 (ざんこく)

74.放棄 (ほうき)

75.緊張 (きんちょう)

76.怪物 (かいぶつ)

77.蓄積 (ちくせき)

78.安住 (あんじゅう)

79.夢物語(ゆめものがたり)

80.抑止 (よくし)

81.道徳 (どうとく)

82.冷戦 (れいせん)

83.終結 (しゅうけつ)

84.魅了 (みりょう)

85.発揮 (はっき)

86.比重 (ひじゅう)

87.発想 (はっそう)

88.混沌 (こんとん)

89.妥協 (だきょう)

90.理念 (りねん)

91.強硬 (きょうこう)

92.誤解 (ごかい)

93.就任 (しゅうにん)

94.敵意 (てきい)

95.正統 (せいとう)

96.実験 (じっけん)

97.存置 (そんち)

98.枕詞 (まくらことば)

99.証文 (しょうもん)

100.専制(せんせい)

101.隷従(れいじゅう)

102.偏狭(へんきょう)

103.除去(じょきょ)

104.名誉(めいよ)

105.恒久(こうきゅう)

106.勃発(ぼっぱつ)

107.手薄(てうす)

108.侵攻(しんこう)

109.創設(そうせつ)

110.講和(こうわ)

111.指令(しれい)

112、忠実(ちゅうじつ)

113.翌年(よくねん)

114、改組(かいそ)

115.遂行(すいこう)

116.装備(そうび)

117.編成(へんせい)

118.質疑(しつぎ)

119.見解(けんかい)

120.整合(せいごう)

121.漸増(ぜんぞう)

122.補完(ほかん)

123.脱却(だっきゃく)

124.後退(こうたい)

125.武装(ぶそう)

126.路線(ろせん)

127.加盟(かめい)

128.徴兵(ちょうへい)

129.払拭(ふっしょく)

130.賞賛(しょうさん)

131.融合(ゆうごう)

132.暴走(ぼうそう)

133.制服(せいふく)

134、忌避(きひ)

135、屈折(くっせつ)

136.自助努力(じじょどりょく)

137.気概(きがい)

138.享受(きょうじゅ)

139.醸成(じょうせい)

140.飛来(ひらい)

141.連帯(れんたい)

142.遭難(そうなん)

143.救助(きゅうじょ)

144.双務(そうむ)

145.治産(ちさん)

146.憲章(けんしょう)

147.通念(つうねん)

148.寄与(きよ)

149.格段(かくだん)

150.神学(しんがく)

151.甚大(じんだい)

152.工作(こうさく)

153.大義(たいぎ)

154.給水(きゅうすい)

155.埋蔵(まいぞう)

156.閣議(かくぎ)

157.諾々(だくだく)

158.停戦(ていせん)

159.敷設(ふせつ)

160.機雷(きらい)

161.掲載(けいさい)

162.掃海(そうかい)

163.賛否(さんぴ)

164.模索(もさく)

165.周知(しゅうち)

166.主導(しゅどう)

167.紛争(ふんそう)

168.要員(よういん)

169.監視(かんし)

170.仲裁(ちゅさい)

171.厳守(げんしゅ)

172.即時(そくじ)

173.撤収(てっしゅう)

174.縛る(しばる)

175.都合(つごう)

176.暫定(ざんてい)

177.解除(かいじょ)

178.輸送(ゆそう)

179.補修(ほしゅう)

180.審議(しんぎ)

181.凍結(とうけつ)

182.硝煙(しょうえん)

183.指揮(しき)

184.犠牲(ぎせい)

185.射殺(しゃさつ)

186.襲撃(しゅうげき)

187.丸腰(まるごし)

188.警護(けいご)

189.配慮(はいりょ)

190.背中(せなか)

191.逆手(さかて)

192.幕僚(ばくりょう)

193.情緒(じょうちょ)

194.激変(げきへん)

195.緩和(かんわ)

196.威嚇(いかく)

197.拘束(こうそく)

198.成熟(せいじゅく)

 

II.役に立つ表現

最悪の事態

ためらわない

影をひそめる

手段を選ばない

(憲法)にうたう

(原則)を貫く

(怠った)がゆえに

目の当たりにする

代表格

そもそも

。。。にあたる

とりわけ

くだり

いじましい

かいま見える

そこそこ

首をかしげる

表向き

。。。とあいまって

矛盾に満ちた

(可能性)をはらむ

とりもなおさず

きまりごと

そしりをうける

(紙切れ)にすぎない

通用する

ちなみに

いうままになる

しのぐ

なおのこと

遅ればせながら

こぞって

なし崩し的

理解に苦しむ

せいいっぱい

とりあえず

(危険)と背中合わせ

逆手に取る

知恵を絞る

目をつける

。。。の余地がない

つくづくと(感じる)

共鳴する

 

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1 2011.01.29 エジプト緊迫 反ムバラク全土に 警官、デモ合流も ネットで若者結集 東京朝刊 外A 06頁 1170字 06段 写真・図

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【カイロ=長谷川由紀、田尾茂樹】強権支配でエジプトを統治してきたムバラク大統領打倒を求める民衆の反体制デモは28日、全土に広がりを見せ、各地でデモ隊と警官隊が衝突する事態となった。チュニジア政変に触発されて始まった体制変革要求の動きは最大の山場を迎えた。〈本文記事1面〉
「自由を!」「ムバラク体制を倒せ」——。カイロ中心部のラムセス広場に向かう数千人のデモ隊の雄たけび。すると突如、その中から歓声が上がった。警官隊の中から数人が、デモ隊側に加わったのだ。制服を脱いで拳を振り上げる警官の姿もあった。
その警官の「みんな来い。一緒に闘おう」の呼びかけに、デモ隊はさらにわきかえった。催涙弾が打ち込まれて騒然となる場面もあったが、行進は続いた。
デモ拡大の主役は、チュニジアでもそうだったように、交流サイトのフェースブックなどを自在に操る若者たち。2008年に政権を批判する女性がネット上で結成した「4月6日運動」を始め、人権侵害に不満を募らせる市民らのグループが主導してきた。
人口8000万のうち、約3分の2が30歳以下のエジプト。ネット利用者は国民の25%に上るとされる。25日以降、多くの人がデモの様子をネット上で目の当たりにしたことで、参加の動きがさらに広がった。
ところが、インターネットは28日未明から国内ほぼ全域で使えなくなった。28日には携帯電話も通じなくなった。ロイター通信によると、英携帯大手ボーダフォンは、エジプト政府にサービス提供中止を求められたと明かした。
政権がなりふり構わずデモの抑え込みにかかった背景にはムバラク大統領(82)の後継問題がある。9月に大統領選を控え、体制批判が高まったことで、次男ガマル氏への権力継承の可能性が薄れたと指摘されており、今後野党勢力が勢いづく可能性があるためだ。
イスラム原理主義組織ムスリム同胞団」は27日、デモ支持の声明を発表。昨年の人民議会(国会)選挙まで野党第2勢力だった保守政党「新ワフド党」や民主活動家アイマン・ヌール氏率いる「ガッド党」も次々、デモに同調する動きを見せる。
ただ、いずれも長期独裁下で事実上、骨抜きにされており、今のところ、変革を求める動きの受け皿になるとは考えにくい。
そこで注目されるのが、ノーベル平和賞受賞者のムハンマド・エルバラダイ前国際原子力機関IAEA)事務局長。大統領選出馬が取りざたされ、自らが体制変革の担い手となる意欲も示してきた。ただ、国外で過ごすことが多い同氏に対しては野党勢力からも批判的な声がある。どこまで指導力を発揮できるかは未知数だ。主導者なき変革の行方は混沌(こんとん)としている。

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第5週の記事

テイラ

自民党の安倍総裁は18日朝、党本部でオバマ米大統領から衆院選勝利の祝福の電話を受けた。米国時間の17日夜。選挙翌日の大統領からの接触は、3年ぶりの自民党政権復活に対する期待の表れといえる。
「日米同盟を強化したい。アジアのパワーバランスが崩れないよう、日本もしっかり責任を果たす」
安倍氏は大統領に、1月訪米の意向とともにこう伝えた。念頭にあるのは、中国の台頭だ。東アジア情勢の不安定化が進む中、安倍氏の外交戦略は、まずは民主党政権下で揺らいだ日米同盟を立て直し、その成果を背景に中国や韓国との関係改善に動く、という2段構えだ。米側は「目指す方向が同じであることに安心感を感じる」(国務省筋)と歓迎する。
同盟強化への真剣さを具体的に示すタイミングは、すぐにやってくる。来年2月をメドに進む2013年度予算編成での防衛費の扱いだ。日本の防衛費はこの10年間連続して減少し、12年度は約4兆6400億円となった。一方、軍備増強を進める中国の国防費は、同じ10年間で約4倍に伸び、12年は発表ベースで約8兆7000億円だ。
日本の自国防衛への悪影響はもちろん、財政難の米国も、同盟国の防衛費縮減に危惧を示している。新政権で防衛費が少しでも増えれば、「米中双方に重要なメッセージになる」と外務、防衛両省幹部は口をそろえる。沖縄・尖閣諸島、島根・竹島など、日本の領土保全強化にもつながる。
より重要なのが、「権利はあるが、行使はできない」とする集団的自衛権に関する政府の憲法解釈の変更だ。そのことは、北朝鮮の事実上の弾道ミサイル発射が12日行われ、一段と脅威が高まったことでも明白になった。行使容認は日米間の長年の懸案であり、前の安倍政権での見直しが頓挫した安倍氏にとっても「悲願」である。
こうした課題への取り組みについて、野田首相をはじめ、中国など海外の一部で「右傾化」と批判する動きがある。新政権は「普通の国が当然解決すべきテーマ」であることを内外に明確に説明するべきだろう。
同じことは「安倍カラー」の柱でもある憲法改正にもいえる。読売新聞の今年2月の世論調査では、憲法改正賛成派は54%に上った。安倍氏がまずは憲法改正の発議要件を定める96条改正を目指すことは、世論の流れに沿った妥当な判断だ。
北朝鮮に始まり、ロシア、米国、中国、そして19日の韓国大統領選で、日本を取り巻く国々の指導者交代や選挙で揺れた1年は、まもなく幕を閉じる。各国が足場を固める13年、日本が国際社会でどう存在感を復活させられるか、安倍新政権の真価が試される。(編集委員 飯塚恵子)

Laura –

外務省は十七日、一九四五年(昭和二十年)九月二十七日に行われた昭和天皇と連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の第一回会見の記録を公開した。この歴史的会談の内容については、マッカーサーが自らの回想記(一九六四年刊行)で触れた例などがあるが、日本政府が公表したのは初めて。封印されてきた戦後日本の出発点が、五十七年の歳月を経てやっと明らかになった。ただ、マッカーサーの回想記などに記された、天皇が自らの戦争責任に言及する部分はなく、天皇の戦争責任発言が外務省の公式文書で明らかになる可能性はなくなった。
この会見記録は、昭和天皇に通訳として随行し、ただ一人会談に同席した奥村勝蔵外務省参事官が、会談終了後に作成した。A4用紙九枚に、三十七分間の会談の模様が記されている。
マッカーサーが「終戦に当っての陛下の御決意は国土と人民をして測り知れざる痛苦を免れしめられた点に於て誠に御英断であった」と述べたのに対し、天皇は「此の戦争に付ては、自分としては極力之を避け度い考でありましたが戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする所であります」と答えた。マッカーサーはまた、終戦の「聖断」に軍や国民が整然と従ったことを指摘したうえで、「是即ち御稜威(みいつ)の然らしむる所でありまして、世界何れの国の元首と雖(いえども)及ばざる所であります」と天皇を称賛した。
この会見における天皇の戦争責任発言についてマッカーサーは回想記に、「天皇が私に語った言葉は、こういうのである。『マッカーサー将軍。私は、戦争中に決定されたすべての政治的、軍事的決定とわが国民がおかした行為について全責任を負う者として、貴下が代表する連合国の判断に私自身をゆだねるために、ここに参りました』」と記している。
昭和天皇とマッカーサーの会見は一九五一年四月まで計十一回行われた。第一回については、直立不動の天皇に対し、腰に手を当てたマッカーサーが並んだ写真が新聞各紙に掲載され、国民に、敗戦の現実が衝撃的に伝わった。
本紙は昨年四月、この会見記録の公開を外務省に申請。同省は当初、開示を拒否した。しかし、一部報道機関の不服申し立てにより、内閣の情報公開審査会が開示すべきだとの答申を出していた。外務省はこの第一回会見記録を十七日から、東京都港区麻布台の外交史料館で一般公開した。

〈会見録全文3面、関連記事3・18面〉

Dallin –

【モスクワ14日=石井利尚】中国の江沢民国家主席は十五日からロシアを公式訪問し、プーチン露大統領と十六日に首脳会談を行う。両首脳は中露善隣友好協力条約に調印し、現在の友好関係を実利に結実させる道を探る。また、米国が急いでいるミサイル防衛(MD)網配備を阻止するための対応策を話し合う。
新条約は、冷戦時代の中ソ友好同盟相互援助条約(一九八〇年失効)に代わる中露間の新たな基本条約となる。軍事同盟ではないが、中露両国とも友好関係の基礎を固めることで、国境警備をさらに削減できる。中国は軍事的エネルギーを南方に集中できることになり、東アジア全体の安保に及ぼす影響は少なくない。
江主席は、訪問前のタス通信との会見で、新条約について、「何代にもわたって友好を維持し、永遠に敵対しない決意を表すもの」と位置づけ、両国が今後は友好を基礎に互いの発展を進められる点を強調した。
中国外務省当局者も「第三国に対抗するものでない」と述べ、第二次世界大戦後の日本や米国に対抗する軍事同盟の性格が強かった「中ソ条約」との違いを指摘した。
ロシュコフ露外務次官によると、新条約の期限は二十年。江主席とエリツィン前大統領の首脳外交で調印した共同宣言などを集大成したもので、両国の指導者交代に左右されない長期的な安定関係の維持を目指しているとみられる。
新条約締結の必要性について、中国社会科学院の李静潔・東欧ロシア中央アジア研究所長は「核兵器を有する隣接国は、友好関係を維持し、相互に内政干渉をしないことを約束しなければ、国内経済発展に専念できないため」と説明した。
両首脳の現在の関心は、米国のミサイル防衛。江主席はタス通信との会見で、「米国が一方的行動に出ないことを望む。対話が必要だ」と表明した。弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約からの離脱まで視野に入れた米国の動きに歯止めをかけるため、プーチン大統領との共闘体制を固めたい意向だ。ロシア側も急速な配備の動きを警戒しており、首脳会談で採択される「モスクワ共同宣言」は米国をけん制するものとなろう。また、ジェノバサミット主要国首脳会議)、米露首脳会談を控えているため、中国側はロシアに様々な注文をつける見通しだ。
 

 

 

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4番目の記事

Laura – 父の戦争記録、娘が封印解く 元「特攻兵器」艇長の体験記出版

太平洋戦争末期に特殊潜航艇「蛟龍(こうりゅう)」の艇長を務めた矢野統一(とういち)さん(84)(高知市)が体験した戦争の記録が、近く自費出版される。封印されていた記憶を、長女の藤原尋子(ひろこ)さん(61)が少しずつ聞き取り、筆を執った。64年前、早すぎる辞世を詠んだ父の胸中にふれ、「一言一句を次世代に伝える義務がある」と考えてのことだという。
矢野さんは高知県戸波村(現・土佐市)生まれ。神戸工業専門学校(現・神戸大工学部)在学中の1944年夏、19歳で海軍に志願し広島県の基地などで蛟龍の訓練を受けた。全長約26メートル、幅約2メートルの5人乗り。敵艦近くまで潜航して魚雷を放つ。事実上、帰還の望めない「特攻兵器」だった。
戦況が厳しさを増した翌45年の4月、教官の指示で辞世の短歌を詠んだ。〈国のためささげ尽くさんこの体 死処(ししょ)に咲くまでただまっしぐら〉
7月、小豆島で訓練中に米軍機の機銃掃射を浴び、右肩をやられた。同僚ら9人が死んだ。
終戦後、転院した兵庫県姫路市の病院で、同室の下士官が「生き方が否定された」と、割腹して果てた。戦争にささげた人生のなんと無残なことか。「全く違う人間として生きる。戦争のことは一切口にすまい」。故郷で不動産鑑定士になり、結婚して2人の子を育てた。
尋子さんは幼少時、父の右肩の大きな傷跡を見つけた。尋ねても、はぐらかされた。東京で中学教師となり、子育てが少し落ち着いた34歳の夏、帰省の折に頼んだ。「お父さんが生き延びたから私がある。どんな体験をしたか教えて」
父は重い口を開き、「海の特攻隊員だった」「国に命をささげることだけを考えていた」と打ち明けた。
娘は衝撃を受けた。「教え子に知ってもらいたい」。帰省のたびに話を聞き、学校で話した。さらに広く伝えたいと、昨年3月の定年退職後、高知に戻って体験談の記録と編集を始めた。
尋子さんは「死ぬために生きた若者がいた。その事実を通して戦争の理不尽さ、無残さを伝えたい」と語る。
 

Dallin – 最年少15歳元特攻隊員 反戦訴え 出撃命令受け覚悟…終戦=新潟

15日は終戦記念日——。全国最年少の15歳で特攻隊員となり、出撃直前に終戦を迎えた新発田市大手町に住む中村五郎さん(83)が、特攻隊員としての思いを語り継ぐ活動を続けている。16歳で辞世の歌を詠み、死を覚悟した夏から今年で67年目。反戦を若い世代に訴えている。
中村さんは1929年3月、五男として滋賀県に生まれた。41年に同県立八日市中学校(当時)に進学し、学校の近くに陸軍航空隊があり、離着陸する飛行機の爆音を聞き、パイロットの雄姿を見た。
「空だ!男の征(ゆ)くところ」というパイロットを募集するポスターを見て、15歳で全国最年少の陸軍第一期特別幹部候補生になった。中村さんは「当時は日本男児として自分の命をささげることが最高の栄誉だった。国家や国民のためならば、命は惜しくなかった」と振り返る。
「機上ノ人トナルヤ 素早ク離陸スル 六〇〇米モ上ルト 山々ハ マルデ 箱庭ノ 山ノヤウニ 小サク 平タイ」
44年8月1日、朝鮮半島で飛行機の基本操縦教習を始めた日には日記にこうつづった。45年5月29日、韓国・ソウルから別の特攻隊訓練基地に移動する際は、「雨ノ中ヲ見送リ オ互ニ 励マシ合ヒ 感無量」と戦友との思い出を記した。
「君が為 何か惜しまむ若桜 散りて甲斐ある 生命なりせば」
45年8月に入り、特攻命令を受けた際には、辞世の歌も詠み、覚悟を決めた。しかし数日後に出撃を控えた8月15日、玉音放送を聞き、終戦を知った。敗戦の悔しさから、仲間同士で肩を抱き合い、夜まで慟哭(どうこく)したという。
その後、兄の誘いで縁もゆかりもなかった新潟に移り、54年に燃料販売会社を設立、徐々に会社を多角化した。特攻隊の体験を本格的に語り始めたのは2004年頃。特攻隊の経験や自分の人生を振り返る本を自費出版したことがきっかけだった。
地元の若手経営者との会合や会長を務める「新潟滋賀県人会」などで、出撃直前で終わった特攻隊の体験などを日記を基に伝えてきた。
中村さんは「自分は命を何とかつないだ人間で、特攻隊の経験が人生の原点。戦争を知らない世代に戦争は絶対にしてはいけないと伝えていきたい」と強調している。

 

Taylor – 緩話急題]沖縄戦から65年 少年特攻隊員 最後の夜

子犬を抱いた少年飛行兵」という写真が新聞に載ったのは、終戦の年のちょうど今頃である。沖縄戦で、米軍艦船への体当たり攻撃を控えた17〜18歳の5人が、屈託ない笑顔で子犬と戯れている。特攻隊員の素顔をとらえた有名な報道写真だ。撮影地の陸軍万世(ばんせい)飛行場跡にたつ「万世特攻平和祈念館」(鹿児島県南さつま市)には、大きなパネルが遺書と一緒に展示されている。だぶだぶの飛行服を着た少年たちを、目を赤くして見つめる見学者もいる。
彼らは出撃前夜を、町中にあった「飛龍荘」という料理旅館で過ごした。特攻隊員が最後の夜を送る宿舎として徴用され、沖縄戦の間に188人が滞在した。
東京都清瀬市に住む板垣レイ子さん(78)は、そこの一人娘に生まれ、母親を手伝って心づくしの食事を調えた。当時14歳。
夕方にやって来て早暁まで、特攻隊員たちの滞在は長くて12時間ほど。彼らは久々に入浴し、残り時間を惜しむように歓談した。
レイ子さんの心に特に残っているのが写真の5人だ。年齢が近くすぐにうち解け、その夜は近所の友達も一緒に遅くまで縁側で話し込んだのを覚えている。
皆で手をつないで「同期の桜」と「夕焼け小焼け」を何度も歌い、就寝が近づいた頃。レイ子さんは隣の千田孝正伍長(愛知県出身)に写真が欲しいと頼んだ。千田伍長は「もう僕たちは素っ裸で何も持ってないんだよ」と答え、空を見上げて言ったという。
「きょうのお月さん、きれいだなあ。おふくろは元気かなあ」
灯火管制の暗がりで、それでも顔はにっこり笑っていたのが、レイ子さんの切ない記憶だ。「覚悟とはこれほどのことか」と。
平和祈念館では毎年4月に特攻隊員らの慰霊祭が催される。レイ子さんは欠かさず参列してきたが、6年前に大病をして、今は夫の豊さん(79)が引き継いでいる。
豊さんは山形県出身。長く東京で外国航空会社に勤め、万世とも特攻隊員とも縁はない。体も費用も大変ではありませんか、と尋ねると、こう答えが返ってきた。
「彼らの犠牲あって、平和な時代に生きてこられた。妻同様に悼むのは当然のことでしょう」
手元の国語辞典を引くと、「悼む=人の死を悲しみ嘆く」とある。近親以外には少し重い感じがする。それを豊さんは「死者を思いやる気持ち」と言った。
特攻隊員らはどんな心持ち、表情で一夜を過ごしたのか。戦への高揚の一方で、恐らくあっただろう恐怖、悔しさ、心残り……。自分なりに想像し、思いをはせることは誰にでも出来るはずだ。そうやって彼らを忘れないこと。それが平和を実感し大切に思うことにつながる、と豊さんは信じる。
万世や同じ特攻基地の知覧(同県南九州市)などからは約2800人が沖縄の海へと飛び立ち、帰らなかった。6月23日に終結した沖縄戦全体では住民を含む約18万人が亡くなった。それから65年が巡る夏。島は米軍普天間飛行場移設問題で騒然の渦にある。相手やかたちはそれぞれに、静かに御霊(みたま)を悼むひとときを、と思う。

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