美しい国へ 安倍晋三 Abe Shinzo
日米同盟の構図
9.11はアメリカを変えたか
二 〇〇一年九月十一日、全世界を恐怖のどん底に陥れた、あのニューヨークの同時多発テロ以降、アメリカは、本質的なところで変わってしまったのか、という議 論がある。おおむね、つぎのような批判だ。〈九・一一の後、アメリカは、一カ月とおかずにテロリストの引渡しを拒否するアフガンに軍事進攻し、さらに、二 年たらずのうちに、大量破壊兵器の所持を理由にしてイラクを攻撃した。フランスやドイツが止めるのも聞かず、アメリカは戦争という最悪の事態まで突っ走っ てしまった。
ブッ シュ大統領が二〇〇二年の「国家安全保障戦略」のなかで「自国を防衛する 権利を行使するため、必要に迫られれば、先制攻撃による単独行動もためらわない」と述べたが、そこには、多国間で協調をはかるという、従来の 国際協調主義は影を潜め、自国の利益追求のためには手段を選ばない単独行動主義が色濃くあらわれている。とりわけ、ネオコンと呼ばれる人たちが、大統領の 外交政策に、強い影響力を与えている――〉
ブッシュ共和党政権が、保守的な理念によって立つ政権であることは事実だし、また、ブッシュ大統領はネオコン=新保守主義と呼ばれる人たちから助言をうけているともいわれている。
アメリカの歴史を振り返ると、その外交の伝統には、独立宣言や憲法にうたわれた理想の考え方をめぐっておおよそ三つのパターンがあるといわれる。
一つめは孤立主義の立場であり、二つ目は理想よりも国益を重んじ、国際政治に 積極的に関与しようとする現実主義的な立場、そして三つめが、理想主義的、福音主義的な 使命感からアメリカ憲法の理念を世界に広めようとする立場である。
この三つは、どれが外交の前面に立つかという違いはあっても、いつの時代にも存在するものだ。したがって、ブッシュ政権がアメリカの歴史のなかで、きわだって特異な政権であるとは思われない。
アメリカ人の信じる普遍の価値
では、アメリカ、あるいはアメリカ人の信じる普遍的な価値観とは何か。
アメリカは、神と聖書を信じ、宗教弾圧や迫害から逃れて、世界中から新天地に希望を求めてやってきた人たちが、独立戦争を経て一七七六年、母国イギリスから独立を勝ち取って生まれた国である。
アメリカ建国の父と呼ばれるなかの一人、トマス・ジェファーソンは、自分自身、奴隷を持つ農場主の家に生まれたにもかかわらず、
〈すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は誰からも侵されない 権利を神から与えられている。その権利には、生存、自由、そして、幸福を追求する権利が含まれる〉
という文章からなる独立宣言書を起草した。
実 際にはまだ確立されていない理念であったが、それらは実現されるべき理想として高らかに掲げられた。ジェファーソンをはじめ、ジョージ・ワシントン初代大 統領、ジェームズ・マディソン(第四代大統領)、アレグザンダー・ハミルトン(初代 財務長官ら、アメリカの建国の指導者たちは、この理想こそアメリカの気高さであり、神によってそう運命づけれれていると考えたのである。
一 八〇三年にルイジアナをフランスから、一八一九年にはフロリダをスペインから、そしてテキサスをメキシコから獲得し、さらにフロンティアを求めて西へと膨 張していった過程は、まさに神から与えられたとする「マニフェスト・デスティニー」(明白な運命)のなせるわざであった。
アメリカの国籍をもち、アメリカで生活する多くのひとたちの共通の意識が、この独立宣言にうたわれた理想だとすれば、それは普遍的な価値であるという、絶対の自信に裏打ちされていなければならない。この考えが好きか嫌いか、不遜か傲岸か、という感情論はさておき、そうしたピューリタン的な信仰と使命感がアメリカという国家を成り立たせている源泉なのである。
彼らはすでに孤立主義を捨てている
十九世紀の末までのアメリカ外交の主流は、このような普遍的な価値観は合衆国のなかで実現すべきことであり、海外への関与は建国の精神に反する、というもので、とくにヨーロッパにたいしては、この不干渉主義の原則を貫いてきた。
米英戦争(一八一二~十四年)以後のアメリカは、ヨーロッパ大陸から三千マイルはなれていたために、安全保障を無償で享受できた。そのことも孤立主義を保つことができた理由の一つである。
し かし歴史は、アメリカのそうした選択を許してくれなかった。アルフレッド・セイヤー・マハン(一八四〇~一九一四年=アメリカ海軍大学校長、「シーパ ワー」の概念を提唱し、列強の海軍戦略に大きな影響を与えた)は、一八九〇年春に著した『海上権力史論』において、アメリカは経済成長の結果、外の世界に たいするかかわり方を変えねばならないと主張した。建国の精神に反することになっても、海外に勢力範囲を広げようという現実的な対応である。しかし、それ は主流とはなりえなかった(中西輝政『アメリカ外交の魂』集英社)。
一 九一四年に始まった第一次世界大戦では、交戦している国とは同盟関係がなく、国益に直接的な影響がなかったアメリカは、中立を宣言した。しかしアメリカ人 が乗っていたイギリス客船ルシタニア号がドイツのUボートに撃沈されたことなども原因となって、アメリカはその二年後、ドイツに宣戦を布告する。そして戦 争終結後は、パリの講和会議の調停役を担うことになった。
このときアメリカ大統領ウィルソンは、国際連盟の創設を提案し、世界史上初めて、国際機構による平和の維持といいう理想を具体化させたのである。そうしたウィルソンの理想は、牧師を父にもつ敬虔な信仰心に支えられていた。
こうして、いわゆるベルサイユ体制が成立するが、領土分割では、戦勝国のイギリス、フランスの2カ国の利益を優先させ、さらにドイツに過酷な賠償金を課したため、勢力の均衡を欠くことになった。
また民族自決の方針は、東ヨーロッパに小さな民族国家を乱立させ、政治的な不安定をもたらすことになった。このときロシアでは、すでに革命政権が樹立されていた。
ウィ ルソンの理想主義は、破綻に近づいていた。一九一九年、ベルサイユからもどったウィルソンに、アメリカ上院議会が突きつけた結論は、国際連盟への不参加と ベルサイユ条約の批准拒否だった。アメリカの理想は正しいが、ヨーロッパの紛争には巻き込まれたくないというのが、国民の意思表示だったのである。孤立主 義への回帰であった。
一 九二九年に始まった世界恐慌は、ヨーロッパの復興を支えてきたアメリカの好況に打撃を与え、ドイツにおいてナチスの台頭をうながすことになった。一九三三 年にはヒトラーがドイツの首相となり、領土拡張の野心を見せはじめる。二〇年代から政権の座にあったムッソリーニの率いるイタリアも、一九三五年エチオピ アに侵攻、一九三八年には、ナチスドイツがオーストリアとの合併を行った。
日本、ドイツ、イタリアは、あいついで国際連盟を脱退、「アメリカは自由の理念を世界に広めるという特別な使命をもつ」と宣言したウィルソンの理想は、ここにいたって、挫折をよぎなくされることになる。
一 九四一年の日本の真珠湾奇襲攻撃は、アメリカ外交に決定的な変更をせまることになった。いまや孤立主義を捨て、自分たちの信じる独立宣言や憲法にうたわれ たアメリカの価値観を世界に広げなければならない――理想主義の追求が、はっきりと外交にもちこまれたのは、このときからである。以来、今日まで民主党で あれ、共和党であれ、アメリカは、パクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)を基本的に信じ、主張してきたのである。
アメリカ保守の自信はどこから来ているのか
自由と民主主義を広げようという使命感に加え、アメリカは、一国で世界の軍事費の四〇%を占めるという比類なきパワーをもっている。
ネ オコンの代表的論客の一人、ロバート・ケーガンは、ヨーロッパとアメリカの世界観の違いについて、著書「楽園と力について」(邦題『ネオコンの論理』)の なかで、一七世紀のイギリスの法哲学者トマス・ホッブスの著書『リヴァイアサン』をとりあげて、アメリカの力を説明している。『リヴァイアサン』には次の ような一節がある。
人 間は生まれつき自己中心的で、その行動は欲望に支配されている。人間社会がジャングルのような世界であれば、万人の自然の権利である私利私欲が激突しあ い、破壊的な結末しか生まない。そんな「自然状態」のなかの人間は、孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短いものになる。だから人々は、互いに暴力を振るう 権利を放棄するという契約に同意するだろう。しかし、そうした緊張状態では、誰かがいったん破れば、またもとの自然状態に逆戻りしかねない。人間社会を平和で、安定したものにするには、その契約のなかに絶対権力を持つ怪物、リヴァイアサンが必要なので。
ロバー ト・ケーガンは、このリヴァイアサンこそがアメリカの役割であり、そのためには力をもたなくてはならないという。そして力の行使をけっして畏れてはならな い。ヨーロッパはその力の蓄積を怠ったがゆえに、結局アメリカに頼るしかなくなったのだ、ヨーロッパが国際機関の下で、「平和」というカント的世界に安住 できるのは、アメリカが、ホッブスのいう「自然状態」に対処しているからだ、と。
一九八〇年代、アメリカに対する強い愛着と敬虔な信仰心の持ち主であったレーガン大統領は、ソビエト連邦を「悪の帝国」といい放ち、ソ連の核脅 威にたいして、それをしのぐ戦略で立ち向かった。アメリカ本土を攻撃するソ連の核ミサイルを、レーザー兵器などによってすべて途中で撃ち落すという防衛計 画(SDI= 戦略防衛構想)もそのひとつだった。そんな夢物語みたいなことは、できはしない。人びとは、揶揄をこめて“スター・ウォーズ計画”と呼ん だ。
こ の計画には膨大な予算が必要だったが、アメリカ国民は、「国民を人質にとる核抑止戦略は不道徳であり、自由の国アメリカが、けっして恐怖にさらされること があってはならない」というレーガンの言葉を支持した。ソ連はこれに太閤しようとするが、巨額の 軍事費の出費に耐えられなくなり、とうとう財政は破綻、崩壊の道をたどっていった。東西冷戦の終結である。
レー ガンは、最後にはソ連のゴルバチョフ書記長との間で中距離核戦力全廃条約(INF協定)を結ぶことになるが、アメリカの力による勝利は 歴然だった。このことについて、異議を唱えるものは、一部のリベラルを除いて、いまのアメリカにはほとんどいない。レーガンの勝利は、そのままアメリカの 保守主義者たちの大きな自信になったのである。
か れらは、ソ連社会主義の崩壊を目の当たりにして、自分たちの主張の正しさを確信したのだった。ネオコンもおなじだった。ただ、かれらが従来の保守主義者と 少し違うのは、もともとリベラルだったために社会改革、とりわけ政府の関与について、はっきりしたビジョンをもっている点であろう。
リベラルが穏健というわけではない
とはいうものの、現在のアメリカの外交には二つの考え方があるのはたしかだ。
一 つは、二十一世紀のグローバル化した時代には、アメリカのスーパーパワーをもってしてもコントロールできない問題がつぎつぎに起きるから、軍事力のみに頼 らず、他国を魅了する政治的イニシアティブを発揮するなどして、国際的な協調に外交の比重を置こうという意見だ。かつてクリントン民主党政権で国防次官補をつとめたジョセフ・ナイに代表される、いわゆる国際協調主義の発想である。
も う一つが、混沌の時代だからこそ、世界の安定の基礎には、アメリカの軍事力が不可欠なのであり、アメリカと利益の相反する国と妥協することは、国益を損な うばかりか、世界を 不安定に導く。だからアメリカは、超大国)の地位を長く保ち、必要に応じて行動しなければならなず、それが世界の安定につながるのだ、とする 単独行動主義である。しかし、どちらも、アメリカの理念を信じ、アメリカの世界のなかで絶対的に優位な立場を保つべきであるという点では、その価値観に決 定的な違いはない。
日本には、アメリカの民主党はソフトで、共和党のほうが強硬だというイメージをもっている人がよくいるが、それは歴史的にみれば大きな誤解だ。
ケネディ大統領は一九六一年一月、就任演説で、
「我々に行為を持つ者であれ、敵意を持つ者であれ、すべての国をして次のことを知らしめよ。我々は自由の確保とその勝利のためには、いかなる代償も支払い、いかなる負担も厭わず、いかなる困難にも進んで直面し、いかなる友人も助け、いかなる敵とも戦う、ということを」
といった。
ブッシュ大統領がこれと同じことをいえば、おそらく「何と好戦的な」とわれるだろう。ケネディはリベラルの代表格であり、民主党出身の大統領である。アメリカの大統領は、表現こそ違え、じつは代々、同じような主張をしているのである。
アメリカの民主主義の論理とは
ア メリカは、「なんびとも生まれながらにして平等であり、誰でも生存と自由と幸福を追求する権利を神から与えられている」という理念を信じる個々人の、合意 のうえでつくりだされた国である。だから、かれらが正統だと考える民主主義とは、そこに住まう個々人が納得して決めた権力や制度であって、それ以外の方法 でつくりだされたシステムは無効だと考えるのだ。
アメリカという国には、日本のように百二十五代にわたって天皇を戴いてきたという歴史があるわけではない。また、ヨーロッパの国々のように、長い間王権に 支配されていたこともない。日本やヨーロッパとは、成り立ちがそもそも違うのである。その意味では、アメリカは、つとめて人工的な国家であり、しかも建国から二百年すこししか経っていないことを考えれば、成功した“実験国家”だといってもよい。
憲法前文に示されたアメリカの意志
占領軍のマッカーサー最高司令官は、敗戦国日本の憲法を制定するに あたって、天皇の存置、封建制を廃止すること、戦争を 永久に放棄させることの三つを原則にしtくぁ。とりわけ当時のアメリカの日本にたいする姿勢が色濃くあらわれているのが、憲法九条の「戦争の放棄」の条項 だ。アメリカは、自らと連合国側の国益を守るために、代表して、日本が二度と欧米中心の秩序に挑戦することのないよう、強い意志をもって憲法 草案の作成にあたらせた。
そして「国家主権の発動をしての戦争」「紛争を解決する手段としての戦争」は もとより「自国の安全を守るための戦争」まで放棄させようとしたのである。また、戦力を保持することはもちろん、交戦権すら認めるべきでないと考えた。
かわりに担保として与えられたのが、憲法前文の、
《平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した》
というくだりだ。つまり、日本国民の安全と生存は、諸外国を信用してすべてを委ねよ、というわけである。まさに憲法第九条の“枕詞“になっている。
憲法前文には、敗戦国としての連合国に対する“詫び証文”のような宣言がもうひとつある。
《われわれは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい》
という箇所だ。
こ のときアフリカはもちろん、ほとんどのアジア諸国はまだ独立していないから、ここでいう《専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている 国際社会》とは、おもに連合国、つまりアメリカを始めとする列強の戦勝国をさしている。ということは、一見、力強い決意表明のように見えるが、じつは、こ れから自分たちは、そうした列強の国々から褒めてもらえるように頑張ります、という妙にへりくだった、いじましい文言になっている。
前 文にちりばめられた「崇高な理想」や「恒久の平和」という言葉には、アメリカがもつ自らの理想主義を日本で実現してみせようとする強い意志がいま見える。 この憲法草案は、ニュウーディーラーと呼ばれた進歩的な若手のGHQ(連合国軍総司令部)スタッフによって、十日間そこそこという短期間で書き上げられた ものだった。
“戦力なき軍隊”の矛盾
さて、当時、草案づくりにあたった民政局ですら首をかしげたといわれる憲法第九条の規定は、いっぽうで独立国としての要件を欠くことになった。
一九五〇年に朝鮮戦争が勃発し、アメリカの占領軍が朝鮮半島に展開すると、マッカーサー司令官は、手薄になった日本にソ連が侵攻してくるのを心配して、日本政府に防衛のための部隊の創設を要求した。ただちに警察予備隊が組織されたが、表向きは国内の治安維持のためだった。
一九五一年、日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、主権を回復、正式に独立した。だが同時に日米安保条約が結ばれると、こんどは国会で、この戦争放棄を定めた憲法九条についての論争が起きる。警察予備隊は、憲法で禁じた「戦力」ではないか、という議論である。
敗戦のショックと戦前の国家に対するアレルギーは、戦争に対する深刻な反省とあいまって、予想以上に大きいものだったのだ。予備隊の設置が連合国軍の指令によるものだったにもかかわらず、憲法に忠実であるべきだという反応のほうが強かった。
翌年、警察予備隊が、保安隊に改組されたとき、吉田内閣は、
「憲法でいう『戦力』とは、近代戦争が遂行できる装備や編成を備えているものをさす。保安隊はもともと警察であって、この程度の実力のものは、戦力とは言わない。これを侵略からの防衛に使うことは、違憲ではない」
と説明した。しかしこの矛盾に満ちた無理な説明は、後に日本の安全保障にとって大きな障害となる可能性をはらんでいた。五三年、吉田茂首相は、国会の自衛隊創設をめぐる質疑のなかで「戦力を持つの軍隊にはいたさない」と答弁した。有名な“戦力なき軍隊”の誕生である。
五 四年、保安隊に代わって自衛隊が発足すると、政府は、「自国に対して武力攻撃が加えられた場合、 国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」、さらに、憲法九条第二項が禁じている「戦力」についても、「自衛のための必要最小限 度をこえるものであって、それ以下の自衛力は、せんりょくではない。したがって自衛隊は違憲ではない」という見解を明らかにする。以降、歴代の政府は、自 衛隊の存在と憲法との整合性を憲法の解釈によって、うまく成り立たせようとしていくのである。
講 和条約といっしょに締結された九日米安保条約には、「自国の防衛のだめ漸増的に自ら責任を負うことをきたいする」と、日本の努力目標まで明記されていた が、実際は、逆の道をたどることになった。なぜなら、創設当初から、外国からの侵略など有事のときに対処するのは 米軍であって、自衛隊は、おもに国内の治安維持にあたるという、米軍の補完的な役割しか与えられていなかったからだ。
日本とドイツ、それぞれの道
こ のとき与党の自由党のなかには、「独立国として、占領軍から押し付けられたものではない、自前の憲法をつくるべきである」、また、「国力に応じた最小限度 の軍隊をもつのは当然で、自衛隊を軍隊として位置づけるべきだ」と主張する人たちがいた。その思いは、もうひとつの保守政党、民主党も同じだった。どもに 戦後体制からの脱却をめざしていたのである。
一 九五五年の保守合同(自由民主党の成立)は、まさにこの目的を実現するためだったが、このときの日本は敗戦からまだ十年しかたっていない。経済力の回復が 最い優先だった。しかしその選択は、いっぽうで、国家にとってもっとも大切な安全保障についての思考をどんどん後退させてしまった。経済成長と軽武装路線 ――それはとりもなおさず、自国の安全保障のほとんどをアメリカに委ねるという選択であった。
戦 後日本は、軍事費をできるだけ少なく抑え、ほかの投資にふりむけてきたからこそ、今日の発展がある、というのがほぼ定説となっている。たしかに戦争で破壊 されたインフラ整備に国家資源を集中することはできた。しかしいっぽう、戦後、相当の軍事費を費やして重武装した旧西ドイツも、日本同様経済発展をとげて いるのである。
戦 争に負けたドイツは、戦勝国の米・英・仏・ソ連によって分割されて占領統治されるが、一九四九年、自由主義国である米・英・仏三国の占領地が西ドイツ(ド イツ連邦共和国)として再出発すると、一九五五年、主権回復と同時に国防軍を創設し、軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。そればかり か、西ドイツは、東西統一まで三十六回も基本法(憲法)を改正し、そのなかで徴兵制の採用は非常事態に対処するための法整備までおこなっている。
いうまでもなく米ソの冷戦の最前線にあって、ソ連社会主義の脅威にさらされていたからだった。西側諸国の要請もあった。
戦後西ドイツの初の首相になったアデナウアーは、一九五〇年の連邦議会で、次のように述べた。
「皆さん、健全な感覚を持つドイツ人ならすべて、みずからのふるさと、みずからの自由を守ることは、避けられないきまりごとであるはずです」
そこには、つねに外的と接してきた国民の、軍隊に対する考え方の基本的な違いがあった。さらにアデナウアーは、国民に残る軍隊アレルギーを払拭するため、一九五二年、同じ連邦議会で次のような演説をおこなった。
「わ たしは本日、議会にたいし、連邦政府の名において宣言いたします。高貴な軍の伝統にもとづき、地上や海上あるいは空で戦ったわれらの兵士すべてを、われわ れは賞賛する。ドイツ軍人の名声と偉大な功績は、過去数年間に、あらゆるそしりを受けましたが、それdもなお生きつづけているし、さらに生きつづける、そ うわれわれは確信しているのです。さらに、われわれはそれを解決できるとわたしは信じているのでありますが、あれわれは共通の使命として、ドイツ軍人の道 徳的価値を民主主義と融合させねばならないのです」
い まも残る徴兵制度は、職業軍人の暴走を防ぐために、軍隊を「制服を着た市民」からなるものにしておく、というのが理由のひとつだといわれる。西ドイツのテ オドール・ホイス初代大統領は、「国防の義務は民主主義の正統な子である」といった。もちろん民主主義国として「良心的忌避」の権利が担保されている。ひ るがえって日本の戦後はどうだっただろうか。安全保障を他国にまかせ、経済を優先させることで、わたしたちは物質的にはたしかに大きなものを得た。だが精 神的には失ったものも、大きかったのではないか。
日本では、安全保障について考えることは、すなわち軍国主義であり、国家はいかにあるべきかを考えることは、国家主義だと否定的にとらえられたのである。それほど戦前的なものへの反発は強く、当時の日本人の行動や心理は屈折し、狭くなっていった。
なぜ日米同盟が必要なのか
一九六〇年の日米安保条約改定のときの交渉が、現在ようやく明らかになりつつあるが、そのいじましいばかりの努力は、まさに駐留軍を、 占領軍から同盟軍に変える、いいかえれば、日本が独立を勝ち取るための過程だったといってよい。しかし同時に日本は、同盟国としてアメリカを必要としていた。なぜなら、日本は独力で安全を確保することができなかったからである。
その状況はいまも変わらない。自国の安全のための最大限の自助努力、「自分の国は自分で守る」という気概が必要なのはいうまでもないが、核抑止力や極東地域の安定を考えるなら、米国との同盟は不可欠であり、米国の国際社会への影響力、経済力、そして最強の軍事力を考慮すれば、日米同盟はベストの選択なのである。
さらに確認しておかなけらばならないのは、今日、日本とアメリカは、自由と民主主義、人権、法の支配、自由な競争――市場経済という、基本的な価値観を共有しているという点だ。それは世界の自由主義国の共通認識でもある。
で は、わたしたちが守るべきものとは何か。それはいうまでもなく国家の独立、つまり国家の主権であり、わたしたちが享受している平和である。具体的には、わ たしたちの生命と財産、そして自由と人権だ。もちろん、守るべきもののなかには、わたしたち日本人が紡いできた歴史や伝統や文化がはいる。それを誇りとい いかえてもよいが、それは、ほかのどこの国も同じで、国と国との関係においては、違う歴史を歩んできた国同士、おたがいに認めあい、尊重しあって信頼を醸 成させていくことが大切なのである。
“行使できない権利”集団的自衛権
日米同盟の軍事同盟としての意味についてだが、安保条約の第五条にはこうある。
「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険の対処するよう行動することを宣言する」
し かしわが国の自衛隊は、専守防衛を基本にしている。したがって、たとえば他国から日本に対してミサイルが一発打ち込まれたとき、二発目の飛来を避ける、あ るいは阻止するためには、日本ではなく、米軍の戦闘機がそのミサイル基地を攻撃することになる。いいかえればそれは、米国の若者が、日本を守るために命を かけるということなのである。
だ が、条約にそう規定されているからといって、わたしたちは、自動的に、そうするものだ、そうなるのだ、と構えてはならない。なぜなら命をかける兵士、兵士 の家族、兵士を送り出すアメリカ国民が、なによりそのことに納得していなけらばならないからだ。そのためには、両国間に信頼関係がこうちくされていなけれ ばならない。
キッシンジャー元国務長官は、「同盟は『紙』ではなく『連帯感』である」といった。信頼に裏打ちされた連帯感。それがない条約は、ただの紙切れにすぎないという意味である。
現在の政府の憲法解釈では、米軍は集団的自衛権を行使して日本を防衛するが、日本は集団的自衛権を行使することはできない。
こ のことが何を意味するかというと、たとえば、日本の周辺国有事のさいに出動した米軍の兵士が、公海上で遭難し、自衛隊がかれらの救助にあたっているとき、 敵から攻撃を受けたら、自衛隊はその場から立ち去らなければならないのである。たとえその米兵が法人救助の任務にあたっていたとしても、である。
双務性を高めることは、信頼の絆を強め、より対等な関係をつくりあげることにつながる。そしてそれは、日本をより安全にし、結果として、自衛力も、また集団的自衛権も行使しなくてすむことにつながるのではないだろうか。
権利があっても行使できない――それは財産に権利はあるが、自分の自由にはならない、というかつての“禁治産者”の規定に似ている。
日本は一九五六年に国連に加盟したが、その国連憲章五十一条には、「国連加盟国には個別的かつ集団的自衛権がある」ことが明記されている。集団自衛権は、 個別的自衛権と同じく、世界では国家がもつ自然の権利だと理解されているからだ。
い まの日本国憲法は、この国連憲章ができたあとにつくられた。日本も自然権としての集団防衛権を有していると考えるのは当然であろう。権利を有していれば行 使できると考える国際社会の通年のなかで、権利はあるが行使はできない、とする理論が、はたしていつまで通用するのだろうか。
行 使できるということは、行使しなければならないということではない。それはひとえに政策判断であり、めったに行使されるものではない。ちなみに一九四九 年、国連憲章にもとづいて発足したアメリカとヨーロッパ諸国による北大西洋条約機構(NATO)では、集団防衛機構であるにもかかわらず、集団的自衛権は 五十年間一度も行使されたことがなかった。行使されたのは、九・一一米国同時多発テロのあとのアフガン攻撃がはじめてである。
“交戦権がない”ことの意味
軍 事同盟とは、ひとことでいえば、必要最小限の武力で自国の安全を確保しようとする知恵だ。集団的自衛権の行使を担保にしておくことは、それによって、合理 的な日本の防衛が可能になるばかりか、アジアの安定に寄与することになる。またそれは結果として、日本が武力行使をせずにすむことにもつながるのである。
アメリカのいうままにならずに、日本はもっといいたいことをいえ、という人ががいるが、日米同盟における双務性を高めてこそ、基地問題を含めてて、わたしたちの発言力は格段に増すのである。
もうひとつ、憲法第九条第二項には、「交戦権は、これを認めない」という条文がある。これをどう解釈するか、半世紀にわたって、ほとんど神学論争にちかい議論がくりかえされた。
ど この国でももっている自然の権利である自衛権を行使することによって、交戦になることは、十分にありうることだ。この神学論争は、いまどうなっているか。 明らかに甚大な被害が出るであろう状況がわかっていても、こちらに被害だ生じてからしか、反撃できないというのだ、憲法解釈の答えなのである。
た とえば日本を攻撃するために、東京湾に、大量破壊兵器を積んだテロリストの工作船がやってきても、向こうから何らかの攻撃がないかぎり、こちらから武力を 行使して、相手を排除することはできないのだ。わが国の安全保障と憲法との乖離を解釈でしのぐのは、もはや限界にあることがお分かりだろう。
「大義」と「国益」
二〇〇三年十一月の特別国会の予算委員会で、日本政府がイラクに自衛隊を派遣するに当たって、私は、小泉総理にこう質問した。
「イラクが危険な状況にあるかないかはまずさておいて、最高司令官である総理は、国民と自衛官、そしてそのご家族に、この派遣は、日本という国家にとってどんな重要な意義があるのか、つまり『大義』をしっかりと説明する必要があるのではないか」
というのも、このとき、ともすると多くの国民に、日本はアメリカにいわれて、いやいやながら自衛隊を派遣するのではないか、と思われていたからだ。
では、自衛隊派遣の大義とは、なんだったのか。
第 一に、国際社会が、イラク人のイラク人によるイラク人のための、自由で民主的な国を作ろうと努力しているとき、その国際社会の一員である日本が貢献するの は当然のことであり、それは先進国としての責任である。イラクが危険な状況にあるかないかが問題だ、という人がいるが、自衛隊は戦闘にいくのではない。給 水やインフラ整備などの人道・復興支援にいくのである。治安が悪化しているのだったらなおのこと、日頃から訓練をつんでいる自衛隊にこそ可能なのではない か。
第二に、日本は、エネルギー資源である原油の八十五パーセントを中途地域にたよっている。しかもイラク原油の埋蔵量は、サウジアラビアについで世界第二位。この地域の平和と安定を回復するということは、まさに日本の国益にかなうことなのである。
二〇〇三年十二月九日、小泉総理は、イラク復興支援特別措置法に基づいて自衛隊派遣の基本計画を閣議決定した。そして派遣の理由を、テレビカメラをとおして、直接国民に語りかけた。
自衛隊派遣はけっしてアメリカの要請に諾々としたがったのではなく、日本独自の選択であり、内閣総理大臣自ら発した命令であることを印象づけることになった。
お金の援助だけでは世界に評価されない
自衛隊が初めて海外に派遣されたのは、湾岸戦争のあと停戦が発効した一九九一年四月のことである。ペルシャ湾にはまだイラクが敷設した機雷が数多く残っていた。日本のタンカーを含む各国の船舶は危険にさらされていて、その除去のためだった。
湾岸戦争ではクウェートに侵攻したイラクに対して国連決議による多国籍軍が派遣されたが、憲法上の制約から軍事行動のとれない日本は、参加しなかった。そこで、かわりに、と申し出たのが百三十億ドルという巨額の資金援助であった。
しかし、湾岸戦争が終わって、クウェート政府が「ワシントンポスト」紙に掲載した「アメリカと世界の国々ありがとう」と題した感謝の全面広告のなかには、残念ながら日本の名前はなかった。
このとき日本は、国際社会では、人的貢献ぬきにしては、とても評価などされないのだ、という現実を思い知ったのである。
ところが、日本と同じように軍事力の行使にきびしい枠をはめられているため多国籍軍に参加できなかったドイツは、停戦成立後、ただちに人道支援の名目で掃海部隊の派遣を決めていた。人的貢献の意味をわかっていたのだ。
機雷除去は、船舶が航行するための安全確保であって、武力行使を目的としていないことは明らかである。すでにアメリカ、フランスなど数カ国が掃海作業に当たっていたが、日本も遅ればせながら掃海部隊の派遣を決めた。それほどドイツの派遣決定の衝撃はおおきかった。
政府が海外派遣の根拠にしたのは、日本周辺の「船舶の航行の安全確保」を目的につくられた、自衛隊法第九十九条の「海上自衛隊は、長官の命を受け、海上における機雷その他の爆発性の危険物の除去及びこれらの処理を行うものとする」という規定だった。
もちろん野党は、こぞって反対である。「なし崩し的に海外派兵につながる」というのがその理由だ。社会党は、当時、自衛隊の存在を憲法違反としているにもかかわらず、まず自衛隊法を改正すべきだと、理解に苦しむ議論を展開していた。
日本は、戦後ただの一度も武力行使をおこなったことはない。機雷除去がどうして武力行使の危険の海外派兵につながるのだろうか。しかも日本は、終戦直後に、周辺海域の機雷1万個を掃海した実績があって、掃海では世界でも一級の技術をもっているのだ。
賛否うずまくなか、掃海艇四隻、母艦、補給艦各一隻のペルシャ湾掃海艇部隊がようやく組織され、五百十一人の自衛隊員によって、九十九日間にわたる機雷除去作業が行われた。この結果、日本は三十四個の機雷を処理するという成果をあげることになった。
自衛隊が独自に戦線を拡大したか
こうして私たちは、憲法の許す範囲で、目に見える、人的国際貢献のありかたをせいいっぱい模索してきた。一九九二年六月、PKO協力法(国連平和維持活動などに対する協力法)の成立は、まさにそのターニングポイントになるものだった。
周知のようにPKOとは、国連の主導で紛争地域の平和維持にあたる要員を派遣することである。この法律の成立によって、わが国の自衛隊は、紛争地域の監視や紛争の仲裁、治安回復、復興に参加することができるはずであった。
し かし派遣に際しては、きびしい枠がはめられた。日本が参加するにあたっては、①紛争当事者の間で停戦合意が成立していること、②紛争当事者がPKO活動と 日本の参加に同意していること、③中立な立場を厳守すること、④これらの原則がひとつでも満たされなくなった場合は即時撤収する、という縛りのほか、⑤自 衛隊のための武器使用は必要最小限にする、という条件も加わった。いわゆる「PKO参加五原則」である。
と ころが、ここでも当時の社会党や共産党をはじめ多くのマスコミは、このPKO法を、憲法違反であり、侵略戦争への道を開くものだと非難した。あれから十四 年たったいま、PKOへの参加は都合九回(二〇〇五年十一月現在)におよぶが、はたして日本は侵略戦争への道をたどっているだろうか。自衛隊が独自に戦線 を拡大していくようなことをしただろうか。
武器使用を制限されて海外へ
自 衛隊が初めてPKOに参加したのは、PKO協力法成立の三カ月後の九二年九月、派遣先はカンボジアだった。七九年に誕生したヘン・サムリン政権と、ポル・ ポト派など三派との間に和平合意が成立し、十二年におよぶ内戦は終わりを告げた。 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視の下で、民主的な選挙がおこなわれることんになった。
国際平和協力業務には、大きく分けて、停戦状況や武装解除の監視、放棄された武器の収集や処理などの「平和維持活動」と、輸送や補給、あるいは道路や橋の補修といった「後方支援」がある。しかし法案審議の過程で、前者の業務は、いわゆる本隊業務、つまりPKF(平和維持隊)にあたり、きわめてきけんであるとして、凍結されてしまっていた。
国 際協力をおこなうかどうかという国会審議のとき、わが国ではかならずといっていいほどでるのが、自衛隊の海外派兵はきんじられているのだから、自衛隊と切 り離した、文民を主体とする別の組織をつくるか、どうしてもというのなら、軍事行動をともなわない民生部門に限る、という議論である。このときもそうだっ た。
停戦がとりあえず成立したとはいえ、武装解除も完全におこなわれておらず、硝煙冷めやらぬカンボジアで、危険がない活動など可能だろうか。
国論を二分する議論の末、日本は、自衛隊の施設部隊六百人の派遣を決定、UNTACの指揮下に入って、国道の補修工事の任務に当たることになった。
じっさい、日本の施設部隊は、任務こそ後方支援だったが、所属したのは、UNTACの軍事部門だった。選挙監視員の安全を確保するため、国道の舗装工事を中断して、投票所の\巡回に行くこともあった。
常識でいえば、いつポル・ポト派の武装勢力がおそってくるかもしれないから、隊員の安全のために、十分な武器を持たせようというのがふつうだが、国会で野党からは、そうした意見は、ついぞ聞かれなかった。
自衛隊が日本人を守れない現実
幸 い自衛隊員には被害がなかったが、ほかに犠牲者が出た。このとき政府は、自衛隊とは別に、民間ボランティアの選挙監視員と、現地の警察に助言や指導を行 う、いわゆる文民警察官を派遣していた。九三年四月に、選挙監視員の中田厚仁さんが何者かに射殺され、つづいて五月には、文民警察官の高田晴行警部補が武 装グループの襲撃をうけて死亡したのだ。
文民警察官たちは、停戦合意が守られているという理由から、丸腰で派遣されていたのだった。
ではなぜ、プロである自衛隊員も、彼らを守ることができなかったのか。PKO法では、武器使用が自衛の場合以外は禁じられているので、警護の任務はできないことになっている――これが当時の内閣法制局の解釈である。
政 府は、自衛隊派遣についての憲法上の議論はあったが、文民に対する安全の配慮に欠けていたと反省した。その安全と配慮とは、武器使用が武力行使になる危険 のある場合には、PKOの参加を中断するか、あるいは撤収するというものだった(一九九一年十二月四日、参院本会議)。
武 装解除が完全に行われていないなか、各国が和平の実現に向けて、危険と背中合わせになりながら汗を流しているのに、武力行使は憲法で禁じられているからと いって、日本だけが中断や撤収することができるのだろうか。憲法という制約を逆手にとって、きれいな仕事しかしようとしない国が、国際社会の目に、ずるい 国だと映っても不思議はない。
カ ンボジアの治安状況が悪化するなか、陸上幕僚長は、「なぜ自衛隊が日本人を守ることができないのか」と悩む隊員に、知恵を絞ったすえ、武器使用の規定が 「自己と共に現場に所在する他の隊員」としているところに目をつけて、「施設部隊が補修する道路や橋についての情報収集は、当然の任務。その途中で投票所 に立ち寄ったとき、そこにいる監視員は『共に所在する隊員』の範疇にはいる」と、指示したと言う。
実 際、国会の議論と現地の実情は、大きく乖離していた。銃を持っていると、敵とみなされてかえって危険、だとか、機関銃は、二挺では軍事活動になるから、一 挺にせよ、とか、およそ情緒的な議論だった。機関銃というのは、一挺では百八十度しかカバーできない。二挺装備してはじめて、後ろも前も三百六十度カバー できるものなのである。
制限だらけの自衛隊の行動基準
こうした自衛隊に 対する国民の考え方も、国際情勢の激変とあいまって、大きく変わってきた。二〇〇一年十二月には、PKO協力法が改正され、凍結されていたPKF(国連平 和維持隊)への参加が解除された。これで、これまでの後方支援から停戦や武装解除の監視、あるいは放棄された武器の収集、処分といった幅広い国際協力が可 能になった。また。カンボジアの苦い経験から、武器使用の制限も、正当防衛の範囲内で緩和された。
従 来、“自分または自分といっしょに現場にいる他の隊員が危険にさらされた場合”しか、武器使用がゆるされなかったものが、近くにいる外国のPKO要員や被 災民、政府の要人や新聞記者、ボランティアなども「自己の管理下」に入ったとみなして防御できるようになった。車両や物資が襲撃を受けた場合も同様であ る。ただし、自衛隊の活動地域に不法に侵入する者に対しては、威嚇射撃をしたり、銃をむけたりすることはできないことになっている。
外 国の軍隊では、当然のこととして認められていることが自衛隊では認められない。外国の軍隊の基準が、国際法の範囲内で「これはやってはいけないが、ほかは よい」ということを決めたネガティブリストであるのに対し、自衛隊の基準は、「ほかはだめだが、これだけはしてもよい」というポジティブリストである、と よくいわれるのは、日本は憲法の拘束がきつく、政策判断の余地がほとんどないためである。
自衛隊をめぐる議論が変わった
二〇〇三年七月、日本は、イラク戦争後の復興支援のために、特措法(イラク人道復興支援特別措置法)を成立させた。戦争は終結したとはいえ、国内の治安が安定していないイラクで支援活動をおこなうには、自衛隊をおいてほかにはない。
派遣にあたっては、さまざまな議論があったが、わたしが、時代が大きく変化してきたな、とつくづく感じたのは、自衛隊の派遣地域が戦闘地域かどうか、という国会論戦がおこなわれたころである。
自 衛隊をイラクに派遣するときには、むしろ「危険な目にあうのではないか」と、自衛隊に温かい目をむける人のほうが大勢を占めた。この結果、サマーワには、 きちんとした装備で行くことができた。その意味では、自衛隊をめぐる議論は、この十年を経て、成熟過程に入ってきたといえる。
日米同盟の構図
I.漢字
1.同盟 (どうめい)
2.構図 (こうず)
3.恐怖 (きょうふ)
4.陥れる(おとしいれる)
5.同時多発 (どうじたはつ)
6.本質的 (ほんしつてき)
7.引渡し (ひきわたし)
8.進攻 (しんこう)
9.大量破壊兵器 (たいりょうはかいへいき)
10.所持 (しょじ)
11.保障 (ほしょう)
12.戦略 (せんりゃく)
13.行使 (こうし)
14.先制 (せんせい)
15.単独 (たんどく)
16.協調 (きょうちょう)
17.濃い (こい)
18.理念 (りねん)
19.助言 (じょげん)
20.孤立 (こりつ)
21.関与 (かんよ)
22.使命感 (しめいかん)
23.特異 (とくい)
24.普遍 (ふへん)
25.弾圧 (だんあつ)
26.迫害 (はくがい)
27.建国 (けんこく)
28.奴隷 (どれい)
29.追求 (ついきゅう)
30.起草 (きそう)
31.初代 (しょだい)
32.財務 (ざいむ)
33.長官 (ちょうかん)
34. 運命 (うんめい)
35.膨張 (ぼうちょう)
36.裏打ち(うらうち)
37.源泉 (げんせん)
38.不干渉 (ふかんしょう)
39.無償 (むしょう)
40.享受 (きょうじゅ)
41.概念 (がいねん)
42.提唱 (ていしょう)
43.列強 (れっきょう)
44.主流 (しゅりゅう)
45.客船 (きゃくせん)
46.撃沈 (げきちん)
47.調停 (ちょうてい)
48.牧師 (ぼくし)
49.領土 (りょうど)
50.分割 (ぶんかつ)
51.過酷 (かこく)
52.賠償 (ばいしょう)
53.均衡 (きんこう)
54.乱立 (らんりつ)
55.樹立 (じゅりつ)
56.破綻 (はたん)
57.批准 (ひじゅん)
58.紛争 (ふんそう)
59.恐慌 (きょうこう)
60.好況 (こうきょう)
61.打撃 (だげき)
62.台頭 (たいとう)
63.野心 (やしん)
64.脱退 (だったい)
65.挫折 (ざせつ)
66.奇襲 (きしゅう)
67.比類 (ひるい)
68.論客 (ろんきゃく)
69.著書 (ちょしょ)
70.私利私欲 (しりしよく)
71.破壊 (はかい)
72.卑劣 (ひれつ)
73.残酷 (ざんこく)
74.放棄 (ほうき)
75.緊張 (きんちょう)
76.怪物 (かいぶつ)
77.蓄積 (ちくせき)
78.安住 (あんじゅう)
79.夢物語(ゆめものがたり)
80.抑止 (よくし)
81.道徳 (どうとく)
82.冷戦 (れいせん)
83.終結 (しゅうけつ)
84.魅了 (みりょう)
85.発揮 (はっき)
86.比重 (ひじゅう)
87.発想 (はっそう)
88.混沌 (こんとん)
89.妥協 (だきょう)
90.理念 (りねん)
91.強硬 (きょうこう)
92.誤解 (ごかい)
93.就任 (しゅうにん)
94.敵意 (てきい)
95.正統 (せいとう)
96.実験 (じっけん)
97.存置 (そんち)
98.枕詞 (まくらことば)
99.証文 (しょうもん)
100.専制(せんせい)
101.隷従(れいじゅう)
102.偏狭(へんきょう)
103.除去(じょきょ)
104.名誉(めいよ)
105.恒久(こうきゅう)
106.勃発(ぼっぱつ)
107.手薄(てうす)
108.侵攻(しんこう)
109.創設(そうせつ)
110.講和(こうわ)
111.指令(しれい)
112、忠実(ちゅうじつ)
113.翌年(よくねん)
114、改組(かいそ)
115.遂行(すいこう)
116.装備(そうび)
117.編成(へんせい)
118.質疑(しつぎ)
119.見解(けんかい)
120.整合(せいごう)
121.漸増(ぜんぞう)
122.補完(ほかん)
123.脱却(だっきゃく)
124.後退(こうたい)
125.武装(ぶそう)
126.路線(ろせん)
127.加盟(かめい)
128.徴兵(ちょうへい)
129.払拭(ふっしょく)
130.賞賛(しょうさん)
131.融合(ゆうごう)
132.暴走(ぼうそう)
133.制服(せいふく)
134、忌避(きひ)
135、屈折(くっせつ)
136.自助努力(じじょどりょく)
137.気概(きがい)
138.享受(きょうじゅ)
139.醸成(じょうせい)
140.飛来(ひらい)
141.連帯(れんたい)
142.遭難(そうなん)
143.救助(きゅうじょ)
144.双務(そうむ)
145.治産(ちさん)
146.憲章(けんしょう)
147.通念(つうねん)
148.寄与(きよ)
149.格段(かくだん)
150.神学(しんがく)
151.甚大(じんだい)
152.工作(こうさく)
153.大義(たいぎ)
154.給水(きゅうすい)
155.埋蔵(まいぞう)
156.閣議(かくぎ)
157.諾々(だくだく)
158.停戦(ていせん)
159.敷設(ふせつ)
160.機雷(きらい)
161.掲載(けいさい)
162.掃海(そうかい)
163.賛否(さんぴ)
164.模索(もさく)
165.周知(しゅうち)
166.主導(しゅどう)
167.紛争(ふんそう)
168.要員(よういん)
169.監視(かんし)
170.仲裁(ちゅさい)
171.厳守(げんしゅ)
172.即時(そくじ)
173.撤収(てっしゅう)
174.縛る(しばる)
175.都合(つごう)
176.暫定(ざんてい)
177.解除(かいじょ)
178.輸送(ゆそう)
179.補修(ほしゅう)
180.審議(しんぎ)
181.凍結(とうけつ)
182.硝煙(しょうえん)
183.指揮(しき)
184.犠牲(ぎせい)
185.射殺(しゃさつ)
186.襲撃(しゅうげき)
187.丸腰(まるごし)
188.警護(けいご)
189.配慮(はいりょ)
190.背中(せなか)
191.逆手(さかて)
192.幕僚(ばくりょう)
193.情緒(じょうちょ)
194.激変(げきへん)
195.緩和(かんわ)
196.威嚇(いかく)
197.拘束(こうそく)
198.成熟(せいじゅく)
II.役に立つ表現
最悪の事態
ためらわない
影をひそめる
手段を選ばない
(憲法)にうたう
(原則)を貫く
(怠った)がゆえに
目の当たりにする
代表格
そもそも
。。。にあたる
とりわけ
くだり
いじましい
かいま見える
そこそこ
首をかしげる
表向き
。。。とあいまって
矛盾に満ちた
(可能性)をはらむ
とりもなおさず
きまりごと
そしりをうける
(紙切れ)にすぎない
通用する
ちなみに
いうままになる
しのぐ
なおのこと
遅ればせながら
こぞって
なし崩し的
理解に苦しむ
せいいっぱい
とりあえず
(危険)と背中合わせ
逆手に取る
知恵を絞る
目をつける
。。。の余地がない
つくづくと(感じる)
共鳴する